土曜日の午後という事もあって、空港から学校へ向かう高速道路は、ほとんど車が走っていない。空港に迎えに来てくれた車は、時速120キロで疾走する。フロントガラスの前には、柳絮(りゅうじょ)という北京特有の綿のようなものが舞っている。季節柄、どんよりとしている。ハルピン出身の関心さんという運転手の説明によると、近くには明の十三陵や万里の長城で有名な八達嶺があるらしい。しかし黄砂のために見えない。
17時30分、学校へ着いた。学校の周辺は何もない。昌平という近くの町までタクシーで五分ほど。買い物は、そこでするらしい。北京市内まで、バスで約40分。市内からの最終バスは午後8時30分。遅くなれば、市内のホテルに泊まるほかない。生活環境は少しずつ分かって行くだろう。しかし、ここは、北京であって北京でないと改めて実感した。日本語の分かる受け入れの人が玄関で出迎え、お茶を飲みながら雑談・休憩。その間に荷物は部屋に届けられる。生活規則や授業方法のオリエンテーション、学校案内があり、夜は歓迎会・・・・。そんなスケジュールを思い描いていた。しかし、実際は違った(四日後に、新任教師が全員そろって、学校関係者と食事会があった)。荷物と一緒にいきなり日本語の分からない担当者が三階の部屋へ案内。広さ10畳ほどの部屋の鍵をくれた。この階は女子学生が生活している。廊下の奥まったところが、われわれ日本語教師の部屋だ。この日は、一切学校側からの接触はなかった。
部屋の中は、映りのよくないテレビ(後でちゃんと映るようになった)。空の冷蔵庫、木の机、ベッド、布椅子二脚、電話機、棚。水洗式だがボッチャントイレとシャワー。果たして、ちゃんとお湯が出るか。二日目は、トイレの水が止まったため、バケツで水を汲んできて使用した。学校側はめったにないと言っていたが。さてさてどうなることやら。
しばらくして、一週間ほど前に到着していた向かいの部屋の鈴木さんが挨拶に来られた。日本の大手電気メーカーを四年前に定年退職し、本来であれば仙台で年金生活の身。中国語を現地で勉強したいという目的で、半年滞在の予定でやってきた。すでに授業も始めている。彼は以前、中国語教室に通っていたが、実用には程遠い初心者と言っていた。
二人で話していると、日本語学科の女子学生が三人やってきた。立ち話をしたあと、彼女たちに案内されて学校の食堂へ。学生用食堂はまずいからと別の食堂へ連れて行ってくれたが、大して変わりはないようだ。メニューを見るが理解できない。彼女たちに任せると、豆腐料理、ごぼうの炒め物、冬瓜のスープ、そしてご飯が出てきた。まあ、なんとか食べることができる。夜九時ごろ、外出していた隣室の河本さんが帰ってきた。立命館大学出身。去年春、卒業後、就職せずに去年八月から、この学校に来た。唯一の若い日本語教師だ。彼女は一年契約で今年六月帰国する予定だという。その後、どうするかと聞くと日本に戻り、大学院を受けるとのこと。授業のことや学校のことも聞いた。古参なので若いが彼女を頼りにするほかない。それにしても、このような環境のもと、寒いという北京の冬も越し、よく頑張ったと思う。
明日は、京都からもうひとり、定年を迎えた人がやってくる。これで日本語教師は、文法を教える中国人と合わせて一気に五人になる。河本さんの話によると、お互い時間をやりくりすれば、週末に限らず、休みもとれる。明後日から授業を始めますか、と言われた。対外的には日本語教師だが、実質的には本当の目的である中国語の勉強をするには、その気になれば、いい環境と言えるだろう。驚いたのは、十一時になったら、部屋の電灯が自動的に止められること。宿舎の消灯時間だ。我々教員用の部屋も天井の蛍光灯はつかず、机のライトのみ。鈴木さんは、たこ足配線でいろいろな電気器具を使っている。疲れていたのですぐに就寝.。
朝六時半にベルがけたたましくなった。起床の知らせだ。再度ベッドに入り、一時間ほど眠る。食堂に行くと、鈴木さんが先に朝食をとっていた。肉餅と牛乳を頼む。四元。食事後、彼が教室へ案内してくれた。教師用の部屋があった。河本さんが持ってきた日本の女性雑誌やドラえもんの漫画が、他の教材と一緒に机の上に並べられている。隣の日本語科教室で一人の女子学生が勉強していた。自分たちの部屋は六人部屋のため、勉強はできないらしい。日曜日というのに、朝から熱心だ。こうして学生たちの力の差が開いていく。
いったん、部屋に戻り、九時過ぎに昌平の町に生活用品を買いにいく。鈴木さんが同行してくれた。学校の門に停まっていたタクシーで五分ほどだ。十元。待っているから、帰りも乗らないかと運転手がいうが断った。つまり、ここ昌平の町でもタクシーは飽和状態にあるということらしい。確かに、一日十人乗せて月の稼働日数が25日としても2500元という高給取りになってしまう。(実際は、そううまく行かないらしいが)。
北京で約40店のチェーンを展開する小白半超市というスーパーに入る。電気コード、サンダル、懐中電灯、石鹸、コップ、ハンガーなどを買った。食料品、雑貨、写真現像他、ここにくれば大体何でも買える。
その後、先週、鈴木さんが頼んでいた近くの名刺屋に入った。百枚で十三元。パソコンソフトで作っている。自分も日本で作ってくれば良かった。パソコンをのぞくと、中国版ウィンドウズのため、濁点が出ない。仕方ないと彼は言った。
帰りは、歩いて帰った。二十分ほどか。風が強く、少し肌寒い。今日も黄砂だ。当分、続くだろう。
部屋に戻る前に、休憩を兼ねて、学内の売店に入った。缶コーラを頼んだ。四元(後で分かったが、小白半のスーパーでは、同じものが1.8元)。生産は二年前の印刷。床に置いてあったビールの箱もほこりをかぶっている。店の隅で、衛星放送を男たちが見ていた。アメリカのボクシングの試合だ。北京市内と違い、サービスの意識はない。
部屋に戻り、買ってきたばかりのコードをつないだ。電圧が気になったが、持参したパソコンのコードは100 −240ボルトの範囲で可能と書いてあったので、日本で変圧器は買わなかった。壊れたら大変だ、これからの生活に重大な影響があると不安だったが、コンセントにつないだ。無事に動いた。ほっとした。これで、目的のひとつであるパソコン生活をスタートできる。
夜、最後の教師が到着した。京都出身の藤本さん。定年退職後の六十六歳。年齢よりは若く感じる。鈴木さんより、二つ上だ。プラントメーカーで外国人留学生を受け入れた経験やヨーロッパ駐在の経験があるが、中国語は鈴木さんと同じくほとんどできないという。彼が空港に着いたとき迎えが来ておらず、教えられていた携帯に電話にしたが、それもなかなかつながらない。北京は初めてということもあり、彼の不安さはどれほどのものだっただろう。紹介先の中国語教室のいい加減さに腹がたってきた、と憤慨していた。
サラリーマンが定年退職し、あとは年金生活でマイペースで余生を過ごす、という時代でなくなってきた。彼らのように、短期間、中国で暮らしたいと言う人も多いだろう。しかし、日常会話のマスターのため、現地で生活するのはひとつの方法かも知れないが、基本ができていないと、特に発音が正しくなければ意味は全く通じず、上達は困難だ。
初めてということで、ベテランの河本さんの午前中の授業を後ろの席で聴講させてもらった。授業内容は文法。学生の数は35人くらいか。八割が女性だ。日本の学生に比べ、二十歳前後にしては、幼い印象を受ける。前の席にいる学生たちは熱心に受講し、後ろの席の者は余り話を聴かず、眠ったり、隣の学生と話したりしている。しかし、優秀と思える学生は、去年秋に入学し、日本語の勉強を半年しかしていない割には、ちゃんと話ができる。教官室にもしょっちゅう顔を出す。河本さんは中国語ができるので、基本的な説明は日本語、補足説明を中国語でやっている。90分の授業時間が結構早くたつ。途中、彼女が自分を学生たちに紹介した。そして、自己紹介。簡単な中国語を交えて話をしたが、日本語で質問がいくつかあった。「なぜ中国語を勉強しようと思ったのですか」「いつ中国に来たのですか」「中国はどこに旅行に行きましたか」。初歩的な会話文だが、真面目に質問してくる。中国語をまじえた自分の答えは、果たしてどこまで通じたのだろうか。
河本さんと鈴木さんが昼からの授業中、藤本さんと一緒に本部に行った。気になっていたビザ延長とオープンチケットの変更、そしてインターネットが使えるかどうかの確認のためだ。世話役の陳さん(日中国際交流センター)が対応してくれた。三十代半ばか。十年ほど東京に住み、上海生活を経て、三週間前に故郷の北京に戻ってきた。受け入れの不平不満を藤本さんは彼にぶつけていた。責任者の副院長に伝え、回答すると言った。備品など彼の裁量範囲はすぐに対応してくれたが、その他の課題は果たして解決してもらえるのだろうか。ちなみに院長は共産党幹部から名義だけを借り、実権は副院長の謝さんが握っている。彼はワンマンらしく、彼との衝突が原因で辞めていった教師も多いらしい。しかし、いまのところ、自分にはなんら影響はない。
もうひとつの課題はインターネットの開通。今回の中国行きを知らせている二十人以上の知人たちにメールを送らなければと、気をもんでいたが、なかなかうまくことは進まない。国際電話は一分間16元(約250円)。最高30元のカードしか売っていなかったので、これでは無理だ。日本のように電話機に差し込めば連続して何分も話せるわけではなく、そのたびにカード毎に指定された20桁近い番号を延々と打ち込まなければならない。しかも30元のカードでは二分足らずで切れてしまう。また電話番号自体、家族の分しか記憶していない。パソコンに保存している住所録をもとに、手紙を二十人以上の人に書くのも骨が折れる(最悪の場合は、そうせざるを得ないだろう)。携帯は離日前に解約したため、持ってきていない。インターネット自体は学校で使用しているが、新装された陳さんの部屋にはまだ回線が通じていない。後日、どうするか回答するということだった。開通できればいいが。
本部を出て、部屋に戻った。福井の知人に紹介してもらった北京市内に住む日本人に連絡をとるためだ。彼は、北京市内の日本人学校で教えており、会ってアドバイスを受けるのが目的だ。陳さんに買ったばかりのテレフォンカードで電話のかけ方を教えてもらったが、あいにく不在。それにしても中国のカードは、カードナンバー十二桁、パスワード四桁、さらに相手先の番号を押さなければならない。大変面倒だ。
教員控え室に戻った。ちょうど授業が終わったばかりのようで、部屋には五人ほどの学生がいた。勉強熱心な子が、河本さんさんに質問している。別の男子学生は鈴木さんと雑談している。彼の名前は、晋君。湖北省出身。親しみが持てる。最初に覚えた学生の名前だ。鈴木さんは、中国語の単語を並べてなんとか対応している。筆談していたのか、メモが目に入った。徐悲鴻美術院という文字が書いてある。離日前に、北京の画廊事情を調べてくれとI社長から頼まれていたのを思い出して尋ねてみると、詳しく知らないので、北京市内の美術院に確認したら、とアドバイスしてくれた。そして、メモの別のところに「明日は明日の風が吹く」という文字。面白いと思ったので、中国語で何と言うかと聞くと、「今朝有酒今朝酔、明日愁来明日憂」。晋君は、将来、日本で漫画の勉強をしたいと言っていた。
さて、いよいよ明日から授業開始。今日の河本さんさんの授業を引き継ぐことになった。予習しておこう。
今日は朝から晴天。相変わらず、柳絮が舞っている。遠くの山が見える。長城の方向は虎山というそうだ。顔先生から、長城・十三陵まで車で約二十分と教えてもらった。
八時半から90分の授業。事前に指定されたテキストの量に対し、十分ほど時間が余ってしまった。中国語ができれば補足説明を中国語でできるが、それはまだ無理だ。
給水室で、両手に大きなジャーを持って十人近くの学生が順番を待っている。給湯は、朝、昼、夕方の三回。教師と同じ広さの部屋に六人が三段ベッドで生活している。お湯を使う量も当然多い。
世話係りの陳さんが、学内のパソコンの分かる人に頼んで、インターネットのセッティングをしてくれた。無料プロバイターの163のあとに、テレフォンカードの暗証番号を入力して、インターネットは開通した。しかし、肝心なメールは、hotmailでやってみたが、うまく行かない。とりあえず、無料のヤフーメールは動くが、作業が煩わしい。場合によっては、再度、彼に頼んで、プロバイダーに加入しよう。月五十元程度(十元、約150円のテレフォンカードで部屋の電話回線を使って三時間分位利用できる)と言っていたから、安いものだ。陳さんは東京で十年住み、上海で数年働いた後、故郷の北京に帰ってきた。温厚な人だ。
夜、副院長の謝さんが、昌平の町のレストランで、我々日本人教師四人と陳さん、運転手の開さんたちと一緒に食事をご馳走してくれた。この学校経営以外に、別の仕事もやっているらしく多忙のようだ。年齢は四十代前半か。結構、精悍な顔をしている。北京大学日本語科卒業後、97年まで名古屋に留学していて、上手ではないが日本語ができる。車はワーゲンの新車。日本人でさえこの車は高額なのに、彼の年収は一体いくらなのか。確かに中国の人々の貧富の差は大きい。この研修学院は現在学生数が1100人(学生課の陳さんの話によると、現在800人。中退者が多いということか)。つい先日、北京市教育委員会から私立大学として正式に認可を受けたようで、数年先には学生数を二千人規模にしたい、そのために体育館、教室ほか施設の拡充を図っていると話していた。ちなみに、北京は約百の私立学校があり、正式に認可されたのは24校ということだった。
この学校は、全寮制で、夜七時半から九時半まで学生の一斉自習時間となる。部屋の電灯は強制的に消され、学生たちは真っ暗な部屋を出て、自習室で勉強しなければならない。外国語専攻の生徒たちのレベルが高いのは、そのせいかも知れない。もちろん、やる気のない学生も見受けられるが。食事会から帰って、学生たちの自習風景をみるために教室に行った。確かに真面目に勉強している。教官室には、数人の学生たちが来ていた。杭州出身・英語専攻の包という学生と話をした。今週末、学外で最後の全国一斉テストがあるということだが、英語と中国語を交えて雑談した。テキストをみると、時事政治、ケ小平論など、結構レベルが高い。彼女は、現在、英語を勉強しているが、将来は日本へ行きたいと言っていた。「南京大虐殺の歴史もあるが、自分は日本人が好きで、日本人と親しくなりたい」とも言っていた。この問題が、彼等中国人の心の底辺から消えるのはいつの日か。学生たちとの交流が、生きた中国語の勉強になる。
この日、田舎のせいもあって、周囲は暗く、星空がきれいだった。
今日も快晴。久しぶりに青空を見る。遠くの方の山々は、万里の長城に続いているのか。風はないが、相変わらず楊絮が綿雪のように舞っている。北京の春の風物詩・楊絮は約一ヶ月続くらしい。
二年生の授業。しかし、一年生の優秀な学生に比べれば劣っている感じがする。出席した学生数はたったの四人。話によれば、本当に優秀な学生は、途中でさらにレベルの高い学校へ移っていくという。そのせいか、一年生に比べて二年生は半分、さらに卒業年度の三年生は半分に減っていく。この学校は試験も単位制も何もない。入学時45人いた日本語専攻の学生が、三年生は十人余りだ。授業への参加は、あくまでも学生自身の主体性に任せている。出身地は、湖南、湖北、河南、広西など北京より南の省が多い。親元を離れて生活している。学費は、年間2000〜2500元と聞いた。
夜の自習時間は、学生たちは強制的に教室に行かされる。七時半から九時半まで、自分たちの部屋の電気が止められる。しかも、寮の出入り口は鎖で係りが鍵を閉めて、時間まで部屋には戻れないのだ。様子をみるために、教室へ行こうとした。ところが、教室と反対の学校の門の方向へ歩いて行く学生たちがいた。後で聞くと、彼らは自習時間の間、学校近くのインターネットカフェで遊んでいるとのことだった。昼間もそうらしい。クラブ活動もなく、青春の真っ只中を二十四時間拘束される彼らの気持ちは分からないわけではない。日本人の学生ならば、当然耐えられないだろう。午前8時半〜11時50分、午後2時〜3時50分。全四こまの授業だ。それに夜の二時間。
学生課の陳さんは、この時間、学生たちがちゃんと勉強をしているか、廊下で監視している。溜(りゅう)という言葉は、中国語で「逃げ出す」の意味。彼らは、監視の目をくぐって逃げ出すので注意しなければならない、と笑っていた。陳さんは兵馬俑で有名な西安出身、二十四歳とまだ若い。按摩と針灸の勉強をしているという。英語はできるが、日本語は全くできない。彼と廊下で三十分ほど立ち話をした。
キャンパスのあちらこちらの草の部分に、柳絮が溜まっている。本当に綿のようだ。
唯一の中国人教師、顔先生と雑談をした。彼は1936年生まれの66歳。北京大学日本語科を卒業後、文化大革命時代、旅行会社に就職。その後、政府機関で日本研究につかさどる。定年後、年金をもらいながら、この学校で教鞭を取っているが、正直言って日本語はいまひとつだ。「おはようさんどす」というのが、いつもの彼の朝の挨拶。名古屋に三ヶ月ほど住んでいた、と言った。中国語検定の話をしていると、前任者が二人、この学校から北京語言学院に移ったと言う。二十歳と二十六歳の女性だそうだが、経費は、一年コースで授業料が六〜七千元、寮費が千五百元程度で、希望者はすぐに入れるという。市内中心部にあるし、触手が動く。本格的に中国語を勉強するためには、こちらの学校に行ったほうが明らかにいい。年齢制限もないらしい。しかし、今の自分は留学するだけの時間的余裕は今はもう残っていない。
北京の住宅事情を聞いた。90〜120平米で、安いもので(福祉ビルというそうだ)15〜20万元、新築で(商品ビルというそうだ)50万元くらい、長くて三十年償還。日本人でも購入できる。平均サラリーマンの給与は、千五百元くらいと言っていた。
今日も授業は、一回だけなのに、時間が立つのが早い。学生たちと話していても、中国語の簡単な単語がなかなか出てこない。「日本の正月は、中国より一ヶ月ほど早い」の「ほど」は、どのような意味なのですか、と質問された。程度の表現なのだろうが、中国語で解答したり、例題を思いついたりするのが、すぐにできない。彼らは真剣なのだ。それだけに、いい加減に対応するわけにはいかない。
午前中、三年生の授業。学生数六人のうち、五人が出席。なぜか他に一年生も二人混じっていた。九十分授業が、休憩二十分をはさんで、二回。テキストだけでは面白くないので、学生たちの自己紹介をさせ、併せて日本への留学事情を中国語を混ぜて話した。出身は、北の黒龍江省から南の折江省・広西省まで広範に渡っている。中国人留学生が、日本企業に就職した場合の給料を説明をしたら、その金額の大きさに驚いていた。北京で事務員やガイドになりたいという子もいたが、金があれば日本へ行きたいという学生が多い。就職活動は、六月卒業してから行うが、約30%の学生しか決まらないそうだ。中国でも就職事情は厳しい。親の期待の割には、夢をかなえることができる者は少ない。就職できなければ、彼らはどうするのだろう。テレビでは毎晩七時から就職情報の番組があるし、教官室には、北京人材市場報という専門紙が置いてある。みんなの関心が高いのだろう。
午後、鈴木さん、藤本さんと三人で昌平の町に買い物にでかけた。町の入り口は高速道路の岐路で、長城と明の十三陵に分かれている。中国歴史の英雄・李自成の像が目に入る。
まず中国銀行で一万円を両替し、613元余りが返ってくる。中心部のスーパーで買い物。紹興酒一瓶、缶ビール4缶、ピーナッツ一袋、茶一袋で、二十八元。約450円。この町は人口十八万人。官公庁が集まっているところを見ると町の中心部だろう。夕方、レストランに入る。ビールを二本と前菜二皿、それに肉切面を頼んだ。正直言って、メニューの中身は全くと言っていいほど分からない。あとで花生米というのがピーナッツであることを知った。一人十七元。いまのところ、旅行会話程度でなんとか生活できる。
土曜で授業は休み。休憩時間、廊下越しから聞こえてくる学生たちの喧騒は今日はない。多分、みんな町へ出かけていったのだろう。
学校の周辺をぶらぶらと歩いた。学校の敷地は意外と広い。将来の増築を考えて、土地を確保しているのだろう。門を出て、すぐのところに石牌坊という石作りの門があった。ガイドブックによると、明の時代に建てられた高さ約29mの六本の柱と五つの門を持つ中国で現存する最大の石牌坊のひとつで、十三陵の正門にあたる建物とのこと。昔、中央の門は皇帝しか通過を許されなかった。陵壁は80里に渡って陵区を囲み、陵区内には数千人の衛兵が警備していたという。参道沿いの畑いっぱいにピンク色の花が咲き始めていた。白い花の畑はりんごの木らしい。
授業の時間割表 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
午前は、 8:30−10:00 と 10:20−11:50 午後は、14:00−15:30 と 15:50−16:50 |
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口語は日本語会話のこと。 教師が多いので、ほとんど自分のことばかりやっています。 |
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こちらへ来て、初めて北京市内へ出かけた。晋君が案内役。一年生のため、日本語はまだ十分ではないが、意味はなんとか通じる。昌平の町まで、まずタクシーで向かう。小白羊超市というスーパー前のバス停に行くかと思っていたが、座れないからと始発のバス停に行った。北京へ向かう古い二両連結のバスは、すでに座席がいっぱい。次のバスを待つことにした。五分おきくらいに出るから、次のバスにしましょう、と晋君が言った。しばらくして、次のバスが来た。待っていた乗客たちが、ゆっくりと走ってくるバスのドアに向かっていっせいに走る。バスが停まる。ドア口は大混乱。我先に乗り込む。あっという間に座席が埋まった。自分たちは、結局座れず、北京市内まで約四十分、立つことになった。中国では、順番に並んでバスを待つという習慣はない。そう言えば、北京市内の地下鉄も、ホームに乗車口のマークはなかった。マナーの問題は、これから改善されていくのではないか。
バスの終点は北京・徳勝門。そこから少し歩いて積水譚という地下鉄の駅へ。地下鉄料金は一律三元。ちなみにバス代は四元。復興門駅で乗り換え、最初の目的地である天安門東口で下車。約二十分?地上に上がると、七年前に初めて訪れたときと同じく、天安門広場が目に入った。左手に歴史博物館と革命博物館、右手に人民大会堂。中央に英雄革命記念碑、毛沢東記念碑も見える。幹線の手前は、故宮。紫禁城の入り口だ。日曜日のせいか、人が多いと思っていると、晋君はいつもそうですと答えた。今日は、紫禁城の中には入らず、天安門広場から前門に向かった。
バイキングの店で昼食。十五元。ビールは相変わらず、冷えていない。前門は、上野のアメ横といった感じか。安い商品が通路に所狭しと並んである。天津の狗不理包子(こうぷりぱおず)や天福茶館も目に入った。雑踏を抜けて住宅街へ。レンガ造りの古びた家が続く。少し行き過ぎたが、次の目的地の琉璃敞(りゅうりちゃん)に着いた。文芳四宝(筆・紙・硯・墨)を中心に陶磁器、印鑑などを売る店が集まっている。栄宝斉という有名な店に入った。入り口正面には、畳一畳ほどの大きな硯が飾ってある。ガラスケースの中には、羊の筆が一本数十万円というものもあった。プロにとっては欲しい物も多いだろう。観光客相手ということもあって値段は全般的に高いように思える。以前、教官室で耳にした徐悲鴻、白石など有名な画家の絵のコピーが飾ってあった。結局、看一看(かんいーかん)、覗いただけで店を出た。
次の目的地、天壇公園へタクシーで向かう。運転手と交渉し、十五元。走り出してもメーターを下ろさない。到着する直前にメーターを下ろした。十元の料金が表示される。これで運転手は、五元ピンはねできることになる。
天壇公園は、北京観光の代表的な場所。韓国、台湾、アメリカ、ヨーロッパ、日本など多くの外国人ツアー客で賑わっている。曇天のせいか、前回、来たときに比べ、すすけた感じがする。入園料三十五元は高い。
天壇公園入り口には多くのタクシーが停まっていた。晋君に王府井までの料金を交渉してもらった。数台が二十元から二十五元と答えた。彼らもピンはねを考えているのだろう。二十元くらいだと思うが良く分からない、という車に乗った。最初からメーターを倒した。実際は、十七元だった。
王府井は、北京で一、二を争う繁華街。99年の建国五十周年に道路は整備された。大きなビルが建ち並び、ロレックス、マクドナルド、東芝、NEC,ダイキンなど外資系企業の看板が目立つ。昌平とは、全く異なる都会だ。
帰りも、徳勝門のバス停まで地下鉄を利用する。北京市内の不動産の広告が目に入った。平米約6000元から、と書いてあった。坪当たり、最低約25万程度か。やはり、まだまだ庶民には高値の花だろう。
夜八時前、昌平へ帰るバスに乗った。来る時と同じく、二両連結のバス。社内は真っ暗。前の二台はすでに座席が埋まっていたため、三台目のバスで、なんとか座れた。すぐにいっぱいになった。彼らは、このまま、昌平まで約四十分、立ちっぱなしのまま、帰らなければならない。
後一回ぐらい、学生に同行してもらわないと、バスにはうまく乗れないかも知れない。場数を踏めば、少しは中国人に近づく。
午前中、世話係りの陳さんと、授業方法について話し合う。夜の自習時間を改善しようという話だ。
ヤフーを見ていると、昼前に中国国際航空(AC)の飛行機が韓国・釜山で墜落。天候不順でソウルに向かおうとしていたらしい。死亡者155人?生存者は20人ほど。もしかすると、昨日、天壇公園で見かけた韓国人ツアーの一行も犠牲になったのか。これで、ACに対する信用が低下し、ゴールデンウィークにACを使って中国旅行を予定した人たちは航空会社を変更するか、キャンセルするかも知れない。ちなみに自分の帰りのオープンチケットも中国国際航空の便だ。中国の経済発展に伴い、国内外で航空機を利用する人たちが増えた。危機管理意識は、どうなっているのだろう。
夕方、教官室で周という女子学生と話した。日本留学についていろいろと聞いてくる。後で分かったが、彼女も明日この学校を去り、天津の日本語学校に移るという。以前から考えていたのかも知れない。授業が物足りないのだろうか。そしてなぜか、彼女が夕飯をご馳走してくれた。
英語科の李寧という学生に、日本語のプライベートレッスンをすることにした。一昨日、英語の全国試験が終わり、今度は日本語を勉強したいという。彼は日本語は全く話すことができない。「あいうえお」から始めた。「ず」や「ぐ」の発音が今ひとつうまくできないが、熱心だ。時折、英語と中国語で一方的にまくしたてる。彼の言うことは、ほとんど聞き取れない。しかも、彼は南方人。必ずしも標準語ではない。できれば、発音がきれいな北方人の方が良かった。しかし、こちらの目的は、中国語の勉強。彼とのレッスンが少しでも役にたてばいい。彼も中国語を教えてくれる、と言った。テキストはどれにしようか、と聞くと、「事倍功半」という返事。あれこれやるより、適当な一冊に集中したほうがいいというアドバイス。労多くして、功少なしの意味だ。
福岡在住・中国出身の知人からメールが届いた。「華やかな都会の北京よりも、田舎で生活する方が、本当の中国を理解するのに役立つと思います」という主旨だった。正直言って、何年も住むには抵抗があるが、ニヶ月は多分すぐに過ぎるだろう。
邱永漢のHP「もしもしQさんQさんよ」の今日の分に、「新しく仕事をはじめる人はどうしても少なくとも2つの国にまたがって異なった経済と文化に精通する必要があるようになりました。異国間のコストの差とか、趣味稽好の違いのなかにしか付加価値が見出せない時代になってしまったからです。そのためには留学にせよ、就職のチャンスを見つけるにせよ、先ず外国に行く必要があります。すると、先立つものはお金というよりは、言葉と身についた職ということになります。・・・・・」
我が意を得たり、という気持ちはあるが、重要なことは結果である。
昼から、李君と鈴木さん、藤本さんの四人で昌平の町へ出た。まず藤本さんが日本へ手紙を出すために郵便局に行った。航空便で六元四毛(九十円くらいか)。切手の数が七枚。局員はスペースのある封筒の裏に切手を糊付けした。横のガラスケースには、きれいな記念切手が飾ってあった。その後、デパートの中にある新華書店へ。藤本さんが、初級の中国語教材を買った。北京の書店もそうだったが、外国語教材は英語が圧倒的に多い。以前、日本の不景気を反映してか、日本語を学ぶ者はピーク時の四分の一に減ったとニュースが伝えていたが、そうかも知れない。
北京の春は風が強いと聞いていたが、確かにそうだ。黄砂も残っていてほこりっぽい。大きな十字路に新しい信号が目立つ。以前、アモイに行ったとき、信号がほとんどなかったため、中国の信号機メーカーは成長株ですね、と同行したI社長に話したのを思い出す。
いつものスーパー小白半で、ガラス製の湯のみ、ビール、菓子などを買った。ケ小平愛用のタバコ・中南海ライトが一箱4.8元(約75円。同じものが日本では270円)。学校の売店は4.5元。タバコは専売制ではないのか。
朝、食堂で、晋君がテレビを見たいから夕方、部屋に来たいと言っていた。寮生たちの部屋にはテレビはなく、食堂にあるDVDで香港映画を見せている。従って、情報源はラジオと教官室にある新聞だけ。約束は六時だった。我々が帰ってきたのが、六時五分過ぎ。彼の部屋を訪ねたが不在だった。九時過ぎになって、「済みませんでした」と晋君が部屋に来た。彼もうっかり失念していたらしい。昌平の床屋に行ってきたらしく、四十元かかった、高かったと言った。普通は、十元程度らしいが、調髪以外に髪も染めたようだ。いろいろな雑談をしていると、いつの間にか、就寝時間の十一時前になってしまった。
食事をするために部屋を出たとき、中に鍵を置き忘れてしまった。オートロックのため、いったん閉まってしまうと、中に入れない。施設を管理する営繕係の何さんに、開けてくれるように頼んだ。李さんは、合鍵をじゃらじゃとと持ってきて、ドアの前で自分の部屋番号303号室の鍵を探す。しかし、なかなか見つからない。結局、「没有(メイヨウ、ありません)」と言った。どうなるのか、と気をもんでいると、いつものことなのか、おもむろにポケットから、小さな透明のセルロイド板を取り出し、ドアの隙間に差し込んだ。簡単に開いてしまった。これでは、やはり無防備ではないか。
テレビもそうだった。アンテナ線がなくても、中央電視台(NHKみたいなもの)はちゃんと映る。しかし、他のチャンネルは見れないことはないが電波が乱れる。若い営繕係がアンテナ線を持ってきて工事を始めた。ドアの上のガラス窓の隅を小さく割り、廊下の外側から線を通した。部屋の壁に伝って、釘でその線を固定する。線の長さが足りないためにテレビの位置を移動させた。テレビにつなぐ。しかし、きれいに映らない、アンテナが悪いのではないか、と彼は言って帰っていったが、それから部屋を訪れる気配は今のところない。
冷蔵庫。部屋に二つあるコンセントを時間帯(授業中と自由時間)によって使い分けなければならない。ひとつが通電している時、もうひとつは通電していない。その度に、配線用コードをはずして、もうひとつのコンセントに差し込まなければならない。うっかり、そのままにしていたら、冷やしたつもりの缶ビールも少し温かくなってしまう。
シャワー。これも同じ。通電しているときしか使えない。
朝食後、一時間ほど、学校周辺を散策した。学校の裏手を出ると畑。数百メートルほど歩くと線路。一日に数回、緑色の列車が通過する。踏切を越えると、レンガ作りの家並みが見えてくる。赤いジャージ姿の中学生たちが登校していた。店先で朝食を売っていた。風呂屋があり、床屋があった。路上で物を売っていた。八時過ぎ。庶民のいつもの生活が始ろうとしていた。
電柱に人材募集のちらしが張ってあった。単位 元。一元=15円(?)。
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自分の担当ではなかったが、一年生の一時間目の授業は、出席者が九人。二時間目は四人だった。学生に聞くと、北京大学の運動会を見るために出かけたらしい。彼らは彼らなりに好きなようにやっている。
午前中、李君のプライベートレッスン。藤本さんもやるので、週一回に変更した。「あいうえお」のカードを一枚ずつ見せ、発音させる。アルファベットと同様、「あいうえお」も、それ自体ひとつの記号にすきない。それらが組み合わさって、初めて意味を持つ。そういえば、我々の子供のころは、どのようにして「あいうえお」を憶えたのだろうか。文字を書いたり読んだりするよりも先に、生活の中で耳から自然に言葉とその意味を憶えていった。日本語を初めて学ぶ中国人にとって、機械的に「あいうえお」の反復練習をできるまで続けることが、まずは最短の学習方法だろう。次に文字を組み合わせて、ひとつずつ単語の意味を教えていくことになる。そして文章。幼児の学習心理学やチンパンジー研究を思い出した。
今日は、な行・は行・ま行。最初、「わ」と「ね」は見た感じが、よく似ているため、ときどき間違える。「む」という字も、書くのに少し時間がかかる。時間がたつにつれて、正解率は向上していく。難しいか、と訊ねると「我不怕難(難しいことなど恐れません)」という返事。いかにも李君らしい。
逆に、日本人が中国語を学ぶ場合、b,p,m,f,c,zi,ji・・・などの発音から入っていく。そして、shiなどの巻舌音のところで、ほとんどの学習者がひっかかる。ピンイン(発音の仕方)と四声(アクセント)が正しくできるようになって、初めて、単語に意味をもたせることができる。
明日は土曜日。明の十三陵と万里の長城へ、車をチャーターして行く予定だ。
朝から曇っていたので、長城行きは来週に延期した。近いから、いつでもいける。
ヒアリングのために、テレビをつけっぱなしにする。チャンネルはたくさんあるが、言葉が分からないこともあって、いまのところBGM代わりだ。
日本の番組のパクリか、それとも、その逆か、よく似た番組がある。みのもんたのクイズ番組(最高の商品はソニーのノート型パソコン。ちなみに、中国で最も高いという広州の平均年収が24万円らしい)、世界不思議発見、料理の鉄人・・・。チャンネル毎に歌番組や時代劇、スポーツニュース、ニュース、討論番組などがあるが、概して、娯楽番組はまだ少ない。といって、日本のような手を抜いたバラエティ番組がいいとも思わないが
テレビ画面の下に、聞こえてくる言葉と同じ漢字がテロップで流れる。民族が多様に渡っているため、北京語が理解できない人たちのために、そうしているのだろうか。今度、学生に聞いてみよう。討論番組は、大人向けのせいか、文字を読んでいると、なんとなく意味は理解できるが、初めて眼にする文字も多い。しかし、これがネィティブな中国語。中国語勉強のための、いい教材。少しずつでも、耳をならすことだ。
ダイエット機器のコマーシャルを見かけた。最近、日本で盛んにコマーシャルしている振動によるものと違い、太った人間の腹部やももに20cmほどの機器を当て、脂肪を燃やす。効果が本当にあるのかどうか分からないが、料金は1,000元弱。「大地の子」の将文麗(正確には別の字)が出演しており、彼女の美しさに改めて見入ってしまった。
経済の発展に伴い、近い将来、海外のより多機能な放送機器の導入、製作技術の向上、ディレクターのセンスアップ、ジャンルの拡大などで、コマーシャルも含め、番組自体の内容も充実していくだろう。
昌平の西街農貿市場。200mほどに渡って、雑貨が露天に並べられている。ここは、百貨店やスーパーとはまた違う庶民の買い物場所だ。果物、鶏料理、女性下着、金魚、革製品、服、靴、音楽カセット、アイスクリーム・・・。種種雑多な商品が、安い価格で並べられている。
彼らにとっては、まず生活用具をそろえること。日本と比べることには無理があるが、彼らは彼らなりの収入範囲で物の充足を図っている。日本人なら、安いと言うだけでは、あのような商品はまず買わないだろう。しかし、生活用品が一通りそろい、収入が増えていけば、かつての日本もそうであったように、生活用品の量から質への転換がなされる日がいずれ来る。
昭和40年ころから発展してきた日本の流通業は、いまや青息吐息。ダイエーは、今年の決算で、3000億を超える赤字を出した。これから、流通業が発達し、小白羊超市のようなスーパーマーケットチェーンも、今はまだ寡占状態だが、競争相手が増えてくれば、質・品揃え・サービス・価格などの向上を強いられていく。
そうなったとき、この市場は、まだ存続しているのだろうか。中国の流通業も、システム化、効率化が始まったばかり。日本の商店街から人影が消え、閑古鳥が鳴いたと同じようなことが起こるかもしれない、と考える露天経営者たちはまだ皆無だろう。
今日の夜、学内の階段教室で、中国映画が上映されるという掲示が張ってあった。
今朝は小雨。
部屋の電気が夜11時で止められる、と思っていたら、コンセント自体は、そのまま使えることが分かった。つまり、天井灯は消えても、パソコン、スタンド、テレビはOKだ。しかし、せっかく規則正しい生活(?)に馴れ始めたので、当分は、このペースでいこう。
そういえば、学校の電灯設備は全体的によくない。部屋の天井の蛍光灯は一本だけだし、食堂なども広さに応じて本数はあるが、それぞれ一本。全体的に暗い。部屋も机上スタンドを利用しないと、十分ではない。大学自体が省電力を図っているのか、それとも供給される電気の絶対量が少ないのか。
中国の電力事情改善は、今後のひとつの課題と言われている。そのために、2009年完成に向けて三峡ダム開発という国家プロジェクトを進めているが、その効果を疑うチャイナウォッチャーもいる。94年に初めて訪中したとき、上海一の繁華街・南京路は原色のネオンで華やいでいた。しかし、路地に少し入ると、そこは、もうほとんど真っ暗。いまは、そうではないだろうが。
世界不況の中で、一人勝ちの様相を呈しているかに見える中国も、国が大きいだけに、内陸部までのインフラ整備はかなりの時間がかかるだろう。国民の生活が実質的に向上してこそ、世界の先進国の仲間入りができるが、現実問題として、そのための国家的課題は、まだまだ多い。
テキストに「現在不比過去了、譲老百姓自由発言了」(今では以前と違って、民衆に自由に発言させるようになった)という一文が載っていた。比較級の構文だ。
テレビで毎週日曜日夜10時から、「対話」という討論番組がある。経営者、学者、芸術家、外国人などのゲストを呼んで、その経歴・考え方などをベースに、評論家や視聴者などとともに自由に討論するスタジオ公開番組だ。
かつて、文化大革命の時代、百家斉放の名のもとに、学者・学生・労働者・大衆などに自由に物を言わせたが、それは、反革命の烙印を押すための、毛沢東の陰謀でもあった。しかし、いまや中国も改革開放の時代。テレビを見る限り、共産党を非難さえしなければ、比較的自由に、ものが言える時代になった。
アメリカや日本での勤務や留学を終え、国際的な視野から、現在そして将来の中国についてコメントする彼等エリートたちは皆、自分たちの国・中国の未来に自信をもっているかに見える。時折り、笑い声や拍手も起こり、スタジオの雰囲気は明るい。
北京市内に出かけた。今回は、北京最大のチベット仏教(通称ラマ教)寺院・雍和宮、北京駐在の日本人が多い建国門、若者の町・西単を回った。
雍和宮は、十七世紀末、康煕時代に建てられ、十八世紀半ば、乾隆時代にラマ教寺院となった。漢、満州、蒙古、チベット各民族の建築様式が融合し、独特な雰囲気を持つ寺院である。最も奥まったところには、ギネスブックにも記載されているという地上18mの一木作りの弥勒菩薩が置かれている。しかし、ここは一回見れば、次は来なくてもいい。
日本大使館に行きましょう、と同行者が言った。学生からいろいろな北京情報や日本情報を入手できると聞いていたからだ。地下鉄・建国門駅を上に出ると、環状線にたくさんの車が走っている。前回、訪中したときに泊まったグロリアホテルやニューオータニ系列の長富宮ホテルが見える。このあたりの環境もすっかり整備された。日本人も多く住んでいる。地図を片手にぶらぶら歩いていると、アメリカ大使館が見えてきた。門番に日本大使館はどこかと聞くと、ひとつ先の路地と教えてくれた。日本の国旗が眼に入った。なんとなくほっとする。自由に入れると学生に聞いていたので、門番に聞くとここは違う、領事館に行けと丁重に断られた。この一帯は、各国の大使館が集まっている。
以前、福岡に留学していた女性が、地下鉄・宣武門駅近くのそごうに勤めていると、教えられていたので向かった。どちらかというと、ここは高級百貨店。化粧品、バッグ、靴など女性用品が多い。彼女が勤めているというトリンプという高級下着売り場を見つけ、名前を言って尋ねてみると、今日は来ていないという。明日はどうか、と聞くと、不知道(ぶーじーだお、知らない)とそっけない。また、機会があれば行って見よう。
外は風が強かった。宣武門駅を北に歩くと、若者の町・西単。店内は日本と変わらないレイアウトで、衣類などを安売りしている。このあたりも、人通りが多い。
北京市内は、確かに西洋化し、日本の繁華街とそう違わなくなった。外国人滞在者が増え、外国情報もタイムリーに入ってくる。時とともに、ますます、センスのいい店も増えるだろう。
テレビの字幕を見れば、意味は少しは想像つくが、字幕を見ないとほとんど理解できない。時代劇になると全くのお手上げ。学生たちが、休み時間にまくしたてる会話も、テレビのニュースで取材に応じる人たちの言葉も、NHKの中国語講座や会話テープのように、必ずしも、標準的な発音で話してはくれないし、スピードも速い。逆に言えば、日本語科の学生たちも、我々日本人が普通のスピードで話す言葉をどこまで理解してるか、というと、多分、理解できていないだろう。
わずか数ヶ月の滞在で、中国人のように、中国語を流暢に話すことなど到底無理な話だ。現在の周囲の言葉の環境が、たとえ中国語しかないとしても、基礎がしっかりとしていないと、それから先は進まない。だから、いくら時間をかけても中国語の上達には限界がある。まあ、今回は、言葉だけにこだわらず、生活全体を楽しむしかない。
学内にある売店の中年夫婦とは、毎日、タバコやインターネットのためのテレフォンカードを買うときに話す。食堂の店員も、料理を注文する時、簡単な話をする。聞き取ってもらえないようであれば、筆談するか、メニューに書いてある品を指差せばいい。目的が通じれば、とりあえず良し。
今回は、旅行や買い物など生活のための中国語会話に少しでも慣れること。そのためには、相手かまわず、間違っても、怪訝な顔をされても、話すこと、場数を踏むことだ。
夜の自習時間。一年生の何さんの友達が教室に来ていた。彼女は、北京市内の大学三年生。今日は、昌平に泊まるようだ。去年、半年間、北海道の田舎で農業研修生として生活した経験があり、片言の日本語をしゃべる。六月からの夏休みに、また日本へ行きたいが、自分は一度、外国に行ったので、もう国から許可が下りない。日本の友達に会いたいが、何かいい方法はないか、と聞いてくる。
家族が日本に住んでいればまだしも、企業からの招聘状があっても、外務省は不法滞在などを恐れてか、以前よりますます審査は厳しくなっている。なかなか日本へのビザは下りない状況なので、正直言って、難しいだろうと答えた。
「中国は、これから益々発展します」と何さんも言った。それが、唯一の心のよりどころであるかのように・・・。彼女は真面目に勉強し、新しい世界を切り開こうで頑張っている。しかし、留学するためのお金がない、と話す。日本語を学ぶ学生のほとんどは、日本への留学を望んでいる。しかし、一番の問題は、数年分の年収をはるかに超える多額の留学費用がかかること。普通の親では、その負担はかなり大きく、子供の夢をかなえてあげることは難しい。
今はまだ、留学を希望する中国の若者たちがすべて、自由に外国に行ける状況でない。生まれてきた国や家庭環境が違うだけで、志を遂げられないことの無念さを感じる学生も多いだろう。そういった点でも、日本の若者たちは、まだ恵まれている。
延期していた明の十三陵と万里の長城に行ってきた。北京市内からだと、このコースは、ワンセットだが、昌平がその分岐点であることを考えると、十三陵は、特別、見るほどのこともなく(同行者が初めてだった)、長城観光だけで十分である。
八達嶺は、万里の長城を代表する観光地である。中国の名所旧跡はどこも当然のように、入場料を取るが、ここは45元。今回も長城の上りは、片道40元のロープウェイを利用した。(往復60元)。年間の入場料収入は、かなりの額になるだろう。
結構、坂がきつい。急な坂を上ると、日ごろの運動不足で息が苦しくなるほどだ。身体を両側から支えてもらいながら、一歩ずつゆっくりと降りる高齢の男性がいた。励ますような日本語が聞こえてくる。親孝行のために、子供たちが、父親の希望をかなえてあげたのだろうか。外国人も多い。相変わらず、韓国人のツアーは赤か黄色のキャップをかぶっている。欧米や日本からの観光客も多く、英語や日本語が聞こえてくると、なぜか、ほっとする。
毛沢東の字が書かれた石碑の横で、写真を撮った。北方の騎馬民族や匈奴の侵入に対し、秦の始皇帝が、この防壁をつないだ。この一帯は、当時の男たちのひとつのドラマが展開された場所でもある。周囲の山々は、その時代とほとんど変わらず、悠久の歴史を経て、現代でも、その姿をとどめているのだろう。テレビドラマ「大地の子」には、晩秋の八達嶺で撮影したシーンも出てくる。遠くの山々を眺め、石の坂を行きかう人たちは、それぞれ、どのような思いを持って、坂を上り、坂を下りていくのだろうか。
万里の長城には、二つの上り口があり、ひとつは歩いて、ひとつはロープウェイを利用して上る。歩いて上る場合、両側に石の坂があり、ほとんどの人は、約2キロ程度のロープウェイ口につながる坂を上っていくが、もうひとつの坂は、結構、急なため、そちらには、ほとんど行かない。
時間が余ったので、みんなが行かない方の坂にも行って見た。五十メートルほど行った四角枠の展望台のような所で、結局、息切れ。同行した鈴木さんは、そこで、スケッチを始めた。藤本さんは、せっかく来たので上まで上る、すぐに戻ってくる、と言って、一人で上りだした。そして、25分ほどして、ほとんど汗もかかずに戻ってきた。(後で聞くと、登山も趣味とのことだった)
彼らは、戦前に生まれ、企業戦士として日本の経済成長とともに働いてきた。そして、子供や孫を持ち、いまや年金暮らし。複数のカルチャーセンターに顔を出し、自由な時間を楽しんでいるかのように見える。サラリーマン人生の典型的なパターンだ。
「高齢化社会」が日本のひとつのキーワードになり、「老後」をどう過ごすかに関心が高まる。生活費、健康、家族、趣味、仕事、友人たちとの交流、社会奉仕・・・。人それぞれの計画や考えがあるのだろうが、保険や年金などの社会保障の将来的な存続が危ぶまれている今、「老後の過ごし方」がさらに課題となってきた。
テレビを見ながら、うとうとしていると、ドアのノックがした。営繕係りの李さんだった。どうしたのか、と聞くと、ちょっと来てくれ、とのこと。彼に案内されて、二階の部屋に行った。二段ベッドが二つあり、そこに一人の少年が腰掛けていた。李さんが、「彼は日本人です。話をしてください。」と言った。訳がわからないまま、話しかけた。暫くして、日本語が少し理解できる一年生の何さんと晋君もやってきた。彼の話によると、先月、長野県の中学を卒業したばかりの十五歳。彼の父とこの学校の副院長が知り合いで、昌平近くの学校へ二週間前に三年間の留学予定で来たが、父親はすぐに帰り、ゴールデンウィーク中、その学校には誰もいないので、その間、ここで生活するためにやってきたらしい。
ずいぶん乱暴な話だ。全く社会経験もなく、中国語もまったくできない。日本語のできる知り合いは誰もいない。通い始めた学校は、クラスに中国人がいればまだ中国語も自然に身につくだろうが、なぜか韓国人ばかりで、日本人は彼ひとりだけ。みんなと一緒に中国語を習い始めたが、説明は韓国語。父親は、その状況も理解して、この学校に留学させたのだろうか。将来の中国の発展を期して、ネイティブな中国語を身につけさせたいという親心は分からないことはない。しかし、そうであれば、もっと、きちんとした学校が北京市内にあったはずだ。
近年、中国語を学ぶ人が増えてきた。中国語教室に通うだけでなく、中国留学を希望する若者たちも多いらしい。日本に来ている中国人留学生と話したい、中国旅行の時に簡単な中国語を使ってみたい、将来の職業選択に役立てたい、中国駐在を予定している・・・・、その目的はさまざまだろう。
親はなくても子は育つ。獅子は子供を谷底に落とす、という言葉があるが、自立心を育てるには、早いときからのほうがいいかも知れないと思う一方、彼が高校を卒業してからでも決して遅くはなかったのではないか、とも思う。しかし、この少年は、我々が心配するほど、ホームシックにかかっている様子もない。環境にすぐに順応し、我々よりもはるかに早く、彼の中国語は上達するだろう。
テレビで、コビー製品に対する法的な認識を高めようと、商標や著作権に関する番組をやっていた。昨年のWTO加盟によって、今後、本当の意味で、中国が国際社会に仲間入りするには「コピー天国・中国」の汚名返上が早急な課題のひとつであろう。
街では、マック(麦当労)とケンタッキーフライドチキン(肯徳基)を一緒にした「麦肯基」(MAIKENJI)」なるファーストフード店や、カーネルサンダースに似せて白い服を着せた男を表示したフライドチキン屋など、思わず、笑ってしまうような店名やロゴも多い。先日、国営の新華書店に行ったときも、WindowsのWord2000やExcel2000などのソフトが、わずか十元(約150円)で、堂々と売られていた。オートバイや電器製品なども、企業名のアルファベットの文字をちょっといじるなど、そのいい加減さは枚挙にいとまがない。
中国に来て感じたことは、庶民の生活レベルが着実に向上していること。よく言われるように、日本の昭和三十年代後半から四十年代前半に似ている感じがする。インフラの整備、自動車社会の到来、流通業や飲食業のチェーン化、個人住宅の取得、国内旅行、若者たちのアメリカ志向・・・・。しかも、そのスピードや変化は、諸外国からのエッセンスを効率よく取り入れるため、早い。2008年の北京オリンピックのとき、中国の都市部はかなり、変化しているのではないか。
製品のコピーからスタートして力をつけ、独創力や技術開発、営業努力などで自立してきた企業もある。現在の中国の、見方によっては、うねりのようなエネルギーが、競争力のある商品を生み出すことができれば、アメリカ、ヨーロッパ、日本など、先進諸国と言われる国々も、うかうかしてはおれない。
友人に次のような手紙を書いた。
「中国の将来について、チャイナウォッチャーたちの意見は、楽観論と悲観論の二つに分かれています。WTO加盟や北京オリンピック開催を起爆剤に、ますます発展するという楽観論と、解決すべき課題が多く、共産党崩壊や内乱などで2008年のオリンピックまでもたないと言う悲観論です。
長期化する不況や自己保身だけの政治に嫌気をさし、企業存続を賭け、欧米に遅れまいと、日本の大手メーカーは、関連会社を引きつれ、中国への工場移転を図っています。その結果、地方の企業城下町はますますさびれる一方。いわゆる産業の空洞化が起こっています。最近中国にできた松下の電池工場は、日本の半分のコストで全く同じものができるそうです。これでは、出ざるを得ませんね。日本の将来は、どうなるのでしょう。もう黄金の日々はやってこないのでしょうか。
一方、中国政府は、それを見越したかのように、中国は世界でも数少ない大消費市場、単純労働力と土地を提供するから、多額の資本、高度な技術、優秀な人材を出せ、と強気です。華僑の歴史をみても分かるように、確かに商売人です。
実感として、所得の向上とともに、庶民の生活水準も西洋化し、着実に向上しています。昭和40年前後の日本の経済状況といったところでしょうか。ただし、これは、広州や北京、上海と言った大都市の話。内陸部の田舎まで広がるには、かなりの時間がかかるでしょう。いずれにしろ、日本にとって中国の今後を無視するわけにはいかないのは事実のようです。」
テレビのニュースで、公明党の神崎委員長が訪中し、江沢民と会談しているのが眼に入った。日本再生の国策もないまま、いつまで中国に迎合するつもりなのか。