厦門・福州・上海(3) 2000.3.2〜3.6

福州の石材、観光の島・アモイコロンス島、そして上海の雑踏・・・。ここにも、新しい出会いが待っていた。
刺激的な出会いこそ、旅の醍醐味である。謝謝(シェシェ)。

ここにも龍

アモイ。香港と同様、土地の音(おん)が世界共通の地名になっている。いまは普通話(プートンホア、標準語)の時代だから、中国ではシア・メンというが、外国人には分かりにくい。アモイは、錨地(びょうち)としては絶好の地形にくるみこまれている。北の山岳地帯から南流してきて海に入る九龍江の河口そのものが海湾をなしており、アモイ島はその湾内に浮かぶ。
 (司馬遼太郎「街道をいく・閔(びん)のみち」、朝日文庫)
 
●一日目
 
福岡〜厦門
 
  福建省厦門(アモイ)は、上海から飛行機で南へ約2時間、台湾の対中国前線基地・金門島と目と鼻の先にある人口約120万人の近代的都市である。1979年、経済特別区として発展し始め、多くの華僑を輩出している土地としても名高い。1時過ぎに福岡を出て上海まで約1時間半、上海で乗り換え、厦門空港には現地時間の夕方5時過ぎに着いた。(中国と日本の時差は1時間。現地で時計の針を戻すことになる)
 
機外の雲
 
 窓の外に雲海が見える。薄い青空と白い雲が遥か遠くまで広がる。突然、飛行機が揺れた。気流の悪いところに入ったらしい。やっと静まったかと思うと再び揺れ始める。過去、何度もそのような経験はあるが、今回は特にひどい。揺れは数十分続いた。十年ほど前、島根県の松江に行ったとき、YS11が急降下したが、あの時以来の心臓が縮む思いだった。次第に上海空港に近づく。飛行機は下降しながら雲海に突入。左翼以外に何も見えない状況がしばらく続く。雲が切れ始めた。見下ろすと、以前見かけた建造物。東洋一を誇る上海・新浦東地区のテレビ塔だ。その横を黄浦江が流れている。揚子江の支流だ。観光地で名高い外灘(ワイタン)を直角に曲がっている。上から見たのは初めてで、思わずカメラを取った。
 
雷さん
 
 上海空港で雷さんが出迎えてくれた。年齢は30歳くらいか。初対面のときはいつもそうだが、出口近くで自分の名前を書いた紙を掲げて待っていた。彼は、今回厦門で合流するI社長の知人で、日本語は長野大学留学中に勉強した。過去、何度も中国へ一人旅をしたが、国内線の乗り換え手続きをするのは初めてのため、やはりいささかの不安があった。それだけに雷さんの存在は短時間とはいえ心強かった。雷さんには、最終日の前日に再会し、上海市内を案内してもらう予定だ。
 乗り換えまで1時間ほどあったので、空港内の「シャロン」でコーヒーを飲んだ。雷さんは日本のある流通企業に勤めている。しかし、個人でも別に貿易の仕事をやっているらしい。「上海で日本人が生活するためには、1ヶ月どのくらいお金がかかりますか?」「家賃、食費、その他も含め4、5万くらいあれば十分でしょう」(厦門で、他の中国人に同じ質問をすると7、8万と答えた)。それぞれの生活レベルを基準に答えているのかも知れないが、年間百万あればなんとか暮らせるらしい。
 
カメラがない!?
 
 雷さんと別れ、機内に入る。荷物を収納し、シートベルトを締めて窓の外を見ると、遠くに飛行場を象徴する「上海」という毛沢東の赤い文字。写真を撮ろうとカメラを探す。ポケットを探り、バッグを開くが見当たらない。そう言えば、さっきの乗り換え時の手荷物検査で、カメラをトレイに置いたまま受け取らなかった・・・。あわてて、中国語でメモを書き、近くにいた空中小姐(スチュワーデス)に手渡す。出発まで、まだ時間はある。意味が通じたのか、出口に向かって彼女が走り出した。5分がたち、10分がたった。もう戻らないかも知れない、検査員がネコババしたのかも・・・。そんな偏見に諦めかけていたところ、別のスチュワーデスが走ってきた。しかし、彼女の手にカメラはない。「どんなカメラですか」(という意味だと理解した)と中国語で訊いたので、「小さな黒のオリンパス」と答えると再び戻って行った。周囲の客はいぶかしげそうに自分の方を見ている。そして5分ほどたち、またスチュワーデスがやってきた。こちらに来てください、と言う。入り口近くに男性スタッフが自分のカメラを手に持ち、「これですか」と訊く。頷き、サインをし、受け取る。
 ここにも”資本主義”・中国を感じる。経済発展とともに、航空業界もサービス競争の波に洗われ、日本の航空会社に負けないサービスを提供するようになった。機内食はまだ今ひとつだが、従業員の動きはテキパキしている。
 
厦門空港
 
  空港にはI社長、今回世話になる林さん、そして運転手が迎えに来てくれていた。I社長は、仕事の関係で二日前に福州に入り、先に厦門に来ていた。後でお会いすることになる書道家の松田朴伝さんは、ホテルで休んでいるとのことだった。
  中国の大都市の空港は、どこも新しく、大きく、きれいだ。ビジネスマンだけでなく、家族連れも多く、すでに庶民の足になっている(もちろん、中国全体では飛行機に乗ったことがない人の方が圧倒的に多いのは間違いないだろうが)。空港内の風景は日本と全く違和感はない。(そういえば、6年前、初めて中国に行ったとき、上海駅で見かけたづた袋を抱えた人々の群れは、今でもあるのか。)
  ホテルまで約20分。車の合間を縫って横断する人々の動きは相変わらずだ。大きな道路でも信号はほとんどない。しかも夜道。中国の交通事故発生率は、日本の15倍と新聞で読んだことがある。増え続ける交通量と人の群れをみると、さもありなん。
 
厦門京閔中心酒店
 
  厦門は福建省の省都・福州よりも外国人が多い。当然、ビジネスマンがほとんどだ。アメリカ、フランス、ドイツ、シンガポール…。日本人のビジネス目的の大半は、石材の輸入。本場福州に比べればまだ少ないが、ここ厦門も少しずつ増えてきているとのこと。そのせいか、このホテルも外国人が目立つ四つ星の立派な高層ホテルだった(中国のホテルは五段階に分かれている。外国人は三つ星以上なら、まあ安全だが、現地の人からみると、やはり高過ぎる)。フロントに置いてあるホテルのパンフレットによると、今回泊まる部屋は一泊700元。日本円で約11000円。平均的サラリーマンの給料の半月分といえば、いかに贅沢かがわかる。しかし、現地の林さんの会社が契約しているとのことで、チェックアウトのときに料金をみると、362元。55パーセントのディスカウントだ。どうなっているのか。
 
松田朴伝先生
 
左:雷さん 中:朴伝先生 (背景は上海・黄浦江)
 
  荷物を部屋に置き、少し休憩してみんなで食事に出かけた。今年、還暦を迎えるという松田朴伝先生は、異様な格好をしてロビーに現れた。無精ひげが少し伸びている。坊主頭に黒のハット。服装は赤のセーターに黒のベストと黒のズボン。黒いスポーツシューズに靴紐は赤。後で気がつくと、時計も旅行バッグも黒と赤のコントラスト。靴下も片足が赤で、もう一方が黒。徹底している。本人の説明では、黒は書を、赤は自分を奮い立たせる情熱を意味しているそうだ。I社長の事前の話によると、朴伝先生は最近では、JR九州の駅長おすすめの湯のポスターの字を書き、単なる書道家ではないとのことで、帰国して、早速インターネットで調べると、以下の経歴だった。抜粋コピー。
 
書家・墨象作家。1940年、佐賀県生まれ。第10回毎日前衛書展秀作賞、第18回奎星展奎星賞など受賞多数。77年のサンフランシスコ展覧会をはじめニューヨーク、パリ、ミュンヘン、ソウルなど海外での展覧会やパフォーマンスの経験も豊富。95年日・米・韓国際交流招待作家3人による「墨・色・形三人展」を主催し注目を集める。
 
福岡、東京、サンフランシスコ、ニューヨーク、オリンピア、パリ、ミュンヘン、ソウル等で書の抽象作品を発表 。ジャズや太鼓等、音楽とのジョイント・アート・パフォーマンスとして '87フランス、シグマ現代芸術祭「耳なし芳一」公演(パリ、ボルドー)に出演。日中国交正常化20周年記念の「北京ジャパンウィーク に出演 。92 ニューヨーク、セントラルパーク野外ステージにて「墨の韻、幻搖の世界」に出演。'95〜'96 日・米・韓 国際交流現代作家三人招待展(書・彫刻・絵)に於いて福岡、ソウル展に出品。'98 「アートを通して世界の平和を」をテーマに、コロラド、ラブランド・ミュージアムとリンカーン・センターより招待を受け出展。
 
朴伝先生の作品はhttp://www.1484.info/bokuden/ をご覧ください。

  日常は福岡市内で書道の先生たちに書を教え、夜はアトリエで作品制作に没頭しているという。彼が言った。「アーティストは金にはならないんです。もちろん書道の先生だけでも食べていけません」。あるパフォーマンスをしたとき、使った筆が五十万円。塗料で書いたから、その筆は何回かで使えなくなった。硯も高いものは2000万から3000万するものがある。文房四宝(筆・紙・硯・墨)の中ではやはり、筆が一番大切だ。書道でいう羊毛はヤギの毛のこと…・、その薀蓄にひとつひとつ頷いてしまう。
  彼のHPのなかで、次の言葉が印象に残った。「書はやり直しがきかない真剣勝負なんです。塗り直しや書き直しが絶対にできない。それが逆に自分へのプレッシャーにもなって、作品に集中できるという良さがあります。」まさに、人生そのものである。真剣勝負をしているかどうかが、ポイントだが…。
 
中国料理
 
  福建省の料理は、その土地の名前をとって閔(みん)菜と呼ばれる。四川省なら川菜、山東省なら魯菜だ。しかし、今回は残念ながら、どの店も大して美味しいとは思わなかった。高級店に行けば別かもしれないが、期待はずれで終わってしまった。
 
●二日目
 
石材の街・福建省恵安市
 
  I社長と朴伝先生の今回の訪中目的のひとつが、石材工場見学だった。朴伝先生がデザインした彫刻石をホテル、レストラン、事務所などにひとつの装飾品として置いてもらおうというねらいだ。厦門から集美、泉州を通り、現地に着いたのが昼前。街に近づくにつれ、道の両サイドに「石材」の看板が増えてくる。輸出先はほとんどが日本。墓石、庭石、装飾品、建材用…、その用途は多岐に渡っている。しかし、近年、その売上は数十パーセント減少している。特に墓石の売上は納骨堂などへの移行で激減しているらしい。原価の十倍以上の売値でうまみを享受していた業者も、競争の激化とともに次第に窮地に立たされ始めている。
 
石材工場

これも中国の現状だ
 
  数カ所の工場を回った。広い敷地に、大小無数の作品が所狭しと置かれている。朴伝先生は、デザインや仕上げのレベルは低いと言った。つまり、日本の石材加工技術の方が優れているということか。製品は、全部、石工たちによる手彫りだ。あちこちでバインダーがうなり、槌の音が響く。驚いたのは、数十人の石工たちの誰一人としてマスクやタオルを口にあてていないこと。防塵用のメガネもしていない。飛び散る石粉が肺や目に悪影響を与えることに不安はないのか。作業着姿の女性が二人、竹の天秤棒に50〜70センチほどの製品を担いで何度も往来する。慣れているのか、苦渋の顔ではない。夕方六時過ぎ、事務所での打ち合わせを終え、帰ろうとすると、さっき天秤棒をかついでいた女性のひとりが、今度は座り込んで石を黙々と削っている。石灯篭の屋根の部分だ。従業員たちの多くが仕事を終え、三々五々帰り始めているのに、彼女のバインダーの音だけが響く。出来高制のため、ひとつでも多くの製品を作り、稼がなければならないのだろう。出来高制といえば、昼間、屋内で石を磨いていた。バインダーで磨きながら、手にもったホースで石粉を洗い流す。その単純な繰り返し。昼食時間になったというのに3人がまだ働いていた。よく見ると、小学校高学年から中学生くらいの少女たちだ。中国も六・三・三・四制だが、義務教育も終えないうちから働いている。
 
ひたすら石を磨く子供 細かい点を打ちつづける

  胸に痛むものを感じながら、工場を後にし、石版の店に行った。大きさA4・厚さ1センチ程度の黒く磨いた石に、動物、風景、花などを描いている。道具は20cmほどの一本のノミ。中には中国の要人が印刷された百元札もあった。外から見えるところに数十枚の作品が掲示され、販売している。そのすぐ裏に行くと、ここにも十人くらいの少年少女たちがいた。暗く狭いところに肩がふれるくらいの間隔で並んで座り、細かい点を打ちつづける。点の数で陰影が出、少し離れたところからみると立派な仕上がりになる。ひとつの製品を仕上げるのに、多分何千回も槌を振るうのだろう。私語は全くない。我々の訪問も意に介さず、ひたすら石版に点を打ち続ける。しかし、いったい1日いくらの稼ぎになるのか。
 
林さん
 
  厦門に戻る。自転車やバイクに乗った労働者たちが家路を急いでいる。対抗車線の車はアッパーライト。そのまぶしさが間断なく続く。20メートル程の道幅の道路に街灯はなく、唯一車のライトだけが頼りだ。我々が乗っていた車が急ブレーキをかけた。目の前を一人の女性が突然現れたのだ。彼女にとって、安全な距離と判断したのだろう。危ない。それにしても、運転していた林さんはタフだ。延々約2時間半の帰路を休憩も取らず百キロ近い猛スピードで車を疾走させる。
  林さんは、福建省で石材貿易を営んでいる。彼のいとこは日本で墓石販売の会社に勤めている。去年、大阪で彼女と会った時、「ぜひ福建省に来てください。武夷山(世界遺産のひとつ、ウーロン茶の名産地として名高い)にも案内します」と誘ってくれた。林さんにしても、彼女にしても、ビジネスを超えて、懸命に我々に気を使ってくれている。今回の厦門旅行は、彼が通訳だった。流暢とは言えないが、コミュニケーションは全く不安がない。

●三日目
コロンス島茶文化交流センター(烏龍茶販売所)
 
鼓浪嶼(コロンス)島
 
  フェリーで十分足らずのところに鼓浪嶼(コロンス)島という厦門の代表的な観光地がある(かつての租界地で洋風の建物がいまも残っている)。大きな岩に打ち付ける波の音が鼓の音に似ているところから、その島の名前が出来たらしい。土曜の休日のせいか、フェリーは満員。対岸の厦門市街の光景は、香港のビクトリア湾の高層ビル群と似ている。島の周囲1.5キロ、人口15000人。市の政策で自転車もバイクも車も一切ない。唯一の乗り物は、観光用の電気自動車(4〜6人乗り)と消防車だけ。近年、華僑たちの別荘建設も始まっている。
 
青茶
 
  島の一角に、ウーロン茶の売店があった。旗袍(チーパオ、チャイナドレス)を来た若い女性が、個室でウーロン茶の飲み方を実演する。目的は、客に茶を売ること。3畳ほどの部屋に、テーブルと椅子、ウーロン茶と茶器のセット、そして四種類のウーロン茶。I社長、朴伝先生、林さん、そして自分の四人が彼女と相向かう形で小さな椅子に座った。説明によると、ウーロン茶だけでも約1600種類あるらしい。「酔西施」という茶があった。天下の中国の美女・西施を酔わせるくらいのすごいお茶なのだろうか。
  四種類を試飲した。まず、茶の湯色を見ながら杯ほどの茶碗を片手で覆い、鼻先に近づけて香りを嗅ぐ。次に唇に茶碗をつけ、静かに舌の上で転がすようにゆっくりと口をすぼめてチュルチュルとすすりつつ香味を楽しみながら口に含み、ゆるりと飲み下す。香りが鼻をうち、爽快な甘い余韻が長く口中に持続する。そんなお茶こそ、よい青茶(チンチャ、ウーロン茶)であり、上手に淹れたお茶だそうだ。また、飲み干した茶碗をもう一度鼻に近づけて香りを嗅ぐと、よいお茶であれば、その香りが茶碗に残る。青茶は香りで飲むお茶であることを知る。また日本茶と違い、ウーロン茶は一煎目は捨てる。しかし、四、五煎目でも香りが持続するのがよいお茶だそうだ。
 
鄭成功像
 
「明朝を特徴づけるものは『海禁』である。法律をもって鎖国を打ち出し、一定の朝貢以外、一切の通商を許さなかった。『海禁』は、福建の沸騰にふたをした。当然、蒸気が噴出する。福建海賊である」(「街道をゆく」)
 
  福建省といえば、蛇頭による日本への密入国者の出身地としてよく耳にするが、17世紀の明の時代は、海賊で鳴らした。近松門左衛門の「国姓爺合戦」で知られる鄭成功は、長崎県平戸で生まれ、アモイを根拠地に台湾を制した。彼を描いた白石一郎の「怒涛のごとく」(新潮社)は一気に読める。今回の観光目的のひとつが、この鄭成功の石像をみることにあった。島の突き出た一角に約20メートルの高さで、台湾の方を向いて堂々と立っている。この石像はなぜか、女性たちだけで石を運び、彫って作られた。
 
 

鄭成功像

 
胡里山炮台海浜公園
 
  台湾支配下の金門島を見ることも、今回の厦門旅行の目的のひとつだった。街の中心部から、南普陀寺、厦門大学を過ぎると、15分程で整備されたきれいな海浜に着く。左右数キロの砂浜の向こうに島がかすかに見える。小金門島だ。台湾と中国が相対する前線である。しかし、いまは平和な観光地。休日のせいか、カップルや若いグループ、家族連れがのどかに砂浜で戯れ、休憩所のテーブルでお茶を飲み、記念写真を撮る。今月18日、台湾の新しい総統が選出される。現在、3人の候補者が横一線の支持率を得て予断を許さない状況だが、もし独立志向の強い民進党候補が選出されたら、両国間の緊張は高まるかも知れない。また新聞は、中国の軍備費が増加しつづけていると報じている。中国側の悲願である台湾統一は、いつ実現するのか。そして、この平和な風景が中台戦争の勃発によって、いつ血の海と化すのか。砂浜に沿った道路の横には、一文字十メートル四方の「一国両制統一中国」の巨大な看板。当然、台湾側からの目を意識してのことだろう。その看板の下を銃器を担いで走る兵隊たちの訓練風景は、観光客にとってまだ緊張をもたらすものではない。
 
●四日目
 
タクシー
 
  I社長たちに空港まで送ってもらい、朴伝先生と二人で上海へ戻る。I社長は、この後、福州、無錫、青島と仕事を続け、3月末から4月初めに帰国予定だ。雷さんが迎えてくれて、とりあえずホテルへ。普通、中国人の経営者や事務所長の場合、運転手付の車を持っている。しかし、雷さんの場合、車はなくタクシーでの移動となった。上海空港のタクシー乗り場は、車を待っている人々の長蛇の列。遠隔地行きと近郊行きで列が違う。随分待って、行き先が違うために、もうひとつの列に並び直さなければならないというトラブルもある。いずれにせよ、タクシーはすでに庶民の足。一人の場合、なぜかみんな助手席に座る。また、運転手と客同士でよくしゃべる。何を話しているのか。
 
申し訳ない
 
  雷さんの同僚がホテルで待っていた。魏さん。彼女も長野大学に留学したが、食品工場のアルバイトに忙しく、あまり日本語の勉強ができなかった。そのせいか、言葉は少したどたどしいが意思の疎通に問題はない。日本人と話するのは久しぶりなので嬉しいという。後で聞くと、彼女の姉が雷さんの奥さん。二人とも四川省の出身である。
  ビジネスマンが多くて人気があるという海鮮料理の店で昼食をご馳走になった。外国人らしい客は全くいない。炒飯、揚げ物、炒め物、スープ、餃子…・。いろいろと出てくる。圧巻は40センチほどの伊勢えびの活き造り。上海に日本人が増えたせいか、地元の人たちも刺身を食べるようになった。厦門と違い、この店の料理は確かに美味かった。
 あくまでもプライベートな旅行なので、精算時にお礼も兼ねて料金を払おうとするといらないという。結局、帰るまでの食事代、車代、そしてホテル代まですべて彼らが出してくれた。決して、豊かでないはずなのに、本当に申し訳ない。
 
南京路 
 
  上海一番の繁華街といえば南京路。この通りが去年から歩行者天国になった。日曜日ということもあって、買い物客などでごった返している。中国語では、このような状況を「人山人海」という。第一百貨店から外灘まで道幅20〜30メートル、長さ数キロ以上?。新宿東口や渋谷以上の雑踏だ。
  しばらく歩いて、朶雲軒(たうんけん?)という店に入った。上海一の書道具専門店だ。朴伝先生の旅行の目的は四つ。福建省の書道家との交流、自分がデザインした彫石の製品化、物心つかないころに住んでいた上海への再訪、そして日本で使っている厦門産の紙の包装紙に書かれた文字の作家の追跡。先生は、そのためにわざわざ包装紙を持参した。現地の人に見せて探すためだ。包装紙には厦門産とのみ書かれ、連絡先はなかったために、厦門では結局判明しなかった。上海に期待して、この店を訪れたわけである。

朶雲軒

 
  店内は1階が文房四宝と印鑑や額などの装飾品、2階が書籍、3・4階が画廊である。先生は画廊を巡って「大した作品はなかった。今は日本人作家の腕も上がっている」と言った。2階の書籍フロアに降りた。店員に包装紙を見せると、「有(ヨウ)」といとも簡単に答えた。そして、篆書の本を数冊持ってきた。プロにしか分からない特徴があるのだろう。先生は、即座に違うと言った。彼は、包装紙の文字を書いた書家の本を求めていたのだ。そして、結局は見つからずじまい。先生は気を直して、20分ほどいろいろな書棚の前に立ち、中国現代書家の本を2冊買った。
 
絹のパジャマ
 
  友人に頼まれた絹のパジャマを買いたい、と先生が言った。数千円であり、しかも着心地がいいらしい。朶雲軒を出て、豫園、外灘、友誼商店、百貨店など代表的な観光ルートを回りながら、そのパジャマを探した。値段は180元くらいから650元くらいまで、いろいろある。しかし、なかなか気に入ったものが見つからず、結局、空港で買うことになった。
 
これがビジネスであれば…
 
中国もいま経済が停滞している。国有企業の多くは、外国企業や民間企業の進出の影響もあって赤字を続け、失業者は数千万人の数に上る。日本企業は、人件費の安さだけに目がくらみ、中国に進出し、やがて失敗して帰ってくる。そして、中国人は信用できない、と唇を噛む。それぞれの思惑がからみ、中国ビジネスは難しい、できればやりたくない、というのが本音の経営者もいる。

帰国して大学時代の友人から電話があった。年賀状のやりとりはしていたが、10年振りくらいの再会だ。バーで旧交を温めた。九大の助手を五年務め、博士号をとって、中間市にある雲母加工会社に就職した。雲母は絶縁体材料で日立、東芝など大手電気メーカーと取引している。彼は現在、取締役。不況の影響もあり、従業員数は300人位に減ったが、まだ利益はでているという。その会社が3年前、中国の深せんに工場を作った。彼は工場立ち上げから製品チェックまで合わせると20回ほど訪中したという。その彼も中国ビジネスは難しい、という。日本に家族がいるとか、工場を撤退する可能性をみせるとか、そういう切り札がない限り、彼らを信用して任せることができない、という。
今回の旅行で印象に残ったこと
 
(1)庶民の生活レベルの向上
 
 
人口12億6000万人。この巨大な国はどうなるのか。長いスパンで見たとき、アメリカに唯一対抗できる超大国になるだろうか。当面、解決すべき課題は多い。国有企業の赤字とそれに伴う失業者の増大・治安の悪化、人口問題に基づく一人っ子政策と高齢化対策、食糧・エネルギー・公害の問題、沿海都市部と内陸農村部の経済格差、台湾政策、社会主義市場経済下での拝金主義と民主化要求、共産党一党独裁による不穏分子の摘発(法輪功だけでなく、いまは気功活動全体が禁じられつつある)、少数民族懐柔政策、汚職の撲滅、WTO加盟による国際的経済競争…。

かつてトウ小平が言ったように、「豊かになれる者から、豊かになっていけばいい」。中国人の生活レベルは都市部を見る限り、着実に向上している。ビジネスマンはほとんどがネクタイを締め、服のセンスもよくなった(以前はノーネクタイに黒のジャンバー)。若い女性たちはカラフルなファッションに変わり、厚底靴が流行っている。百貨店では電器製品があふれ、ブランド物の化粧品が並んでいる(作り過ぎて、一般消費財は在庫の山らしい)。日本に負けないくらいの高層ビルの乱立(ただし、不景気のせいか、上海のテナントは空室が目立つ)、タクシーの増加(昔と違って、競争が厳しくなり、旨みのある商売でなくなりつつある)、テレビコマーシャルに車や女性の生理用品の広告が頻繁に登場する(以前は、インスタントラーメンなどの食料品や電器製品の広告が多かった)、書店の本の紙質が向上し、ファッション雑誌も置かれている…。しかし、その一方にある貧しさの現実。田舎にいけばいくほど、その差は大きい。都市部の繁栄は、中国にとってはまだ特殊な状況に過ぎない。
(2)献身的な接待
 
利益をもたらしてくれる大切な日本の取引先。接待なくして、彼らのビジネスは成立しないかに見える。朝から夜までつきっきりで世話をし、休日も割いて相手を喜ばせようとする。経費はすべて中国側。日本企業と中国企業という会社同士のビジネスであれば、それぞれの思惑が蠢き、トラブルの原因になるケースも多い。林さんにしても、雷さんにしても、個人経営なだけに、そんなに稼いでいるようには見えない。生き残り競争はここでも厳しい。しかし、誠実で一生懸命。甘えるわけにはいかないが、このような充実した旅行ができるのも、彼らの献身的な対応のお蔭である。

利益をもたらしてくれる大切な日本の取引先。接待なくして、彼らのビジネスは成立しないかに見える。朝から夜までつきっきりで世話をし、休日も割いて相手を喜ばせようとする。経費はすべて中国側。日本企業と中国企業という会社同士のビジネスであれば、それぞれの思惑が蠢き、トラブルの原因になるケースも多い。林さんにしても、雷さんにしても、個人経営なだけに、そんなに稼いでいるようには見えない。生き残り競争はここでも厳しい。しかし、誠実で一生懸命。甘えるわけにはいかないが、このような充実した旅行ができるのも、彼らの献身的な対応のお蔭である。
 
(3)道を極める
 
松田朴伝先生。書道暦40年。ひとつの道を極めることの難しさと素晴らしさを実感する。ひょうひょうとしたなかにも、書家としての自信があふれている。人生を結果オーライにするためには、多くの人たちとの出会いを通した切磋琢磨や不遇の時代を乗り越える体験が必要なのだろう。朴伝先生は修行時代、わずか2畳の三段ベッドで共同生活していたことがある。
(4)やはり、旅行は個人(または少人数)がいい。
 
美味しいものを食べ、旅行会社が決めた型どおりの主要な観光地を時間通りに回る。言葉の心配もない。しかし、パックツアーにはリスクが少ないし、裏通りを見ることもほとんどない。ガイドブックの内容を上からなぞっているだけだ。人々の日常の暮らしをみたい。個人旅行には自由と不安がある。そこが面白い。朝食前にホテル周辺を行くあてもなく、ぶらぶらと歩く。店で値切る。わけの分からない料理を注文する(羊の脳みそ、なにかの動物の血…。名前は忘れた)。片言の中国語で話す…。その体験の中から、彼らの生きるエネルギーを得ることに面白さを感じる。だから、都会化し日本と変わらない場所は、安心はできるが、いまひとつつまらない。完)
The trip to China
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