アモイ。香港と同様、土地の音(おん)が世界共通の地名になっている。いまは普通話(プートンホア、標準語)の時代だから、中国ではシア・メンというが、外国人には分かりにくい。アモイは、錨地(びょうち)としては絶好の地形にくるみこまれている。北の山岳地帯から南流してきて海に入る九龍江の河口そのものが海湾をなしており、アモイ島はその湾内に浮かぶ。 |
(司馬遼太郎「街道をいく・閔(びん)のみち」、朝日文庫) |
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●一日目 |
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福岡〜厦門 |
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福建省厦門(アモイ)は、上海から飛行機で南へ約2時間、台湾の対中国前線基地・金門島と目と鼻の先にある人口約120万人の近代的都市である。1979年、経済特別区として発展し始め、多くの華僑を輩出している土地としても名高い。1時過ぎに福岡を出て上海まで約1時間半、上海で乗り換え、厦門空港には現地時間の夕方5時過ぎに着いた。(中国と日本の時差は1時間。現地で時計の針を戻すことになる) |
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機外の雲 |
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窓の外に雲海が見える。薄い青空と白い雲が遥か遠くまで広がる。突然、飛行機が揺れた。気流の悪いところに入ったらしい。やっと静まったかと思うと再び揺れ始める。過去、何度もそのような経験はあるが、今回は特にひどい。揺れは数十分続いた。十年ほど前、島根県の松江に行ったとき、YS11が急降下したが、あの時以来の心臓が縮む思いだった。次第に上海空港に近づく。飛行機は下降しながら雲海に突入。左翼以外に何も見えない状況がしばらく続く。雲が切れ始めた。見下ろすと、以前見かけた建造物。東洋一を誇る上海・新浦東地区のテレビ塔だ。その横を黄浦江が流れている。揚子江の支流だ。観光地で名高い外灘(ワイタン)を直角に曲がっている。上から見たのは初めてで、思わずカメラを取った。 |
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雷さん |
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上海空港で雷さんが出迎えてくれた。年齢は30歳くらいか。初対面のときはいつもそうだが、出口近くで自分の名前を書いた紙を掲げて待っていた。彼は、今回厦門で合流するI社長の知人で、日本語は長野大学留学中に勉強した。過去、何度も中国へ一人旅をしたが、国内線の乗り換え手続きをするのは初めてのため、やはりいささかの不安があった。それだけに雷さんの存在は短時間とはいえ心強かった。雷さんには、最終日の前日に再会し、上海市内を案内してもらう予定だ。 |
乗り換えまで1時間ほどあったので、空港内の「シャロン」でコーヒーを飲んだ。雷さんは日本のある流通企業に勤めている。しかし、個人でも別に貿易の仕事をやっているらしい。「上海で日本人が生活するためには、1ヶ月どのくらいお金がかかりますか?」「家賃、食費、その他も含め4、5万くらいあれば十分でしょう」(厦門で、他の中国人に同じ質問をすると7、8万と答えた)。それぞれの生活レベルを基準に答えているのかも知れないが、年間百万あればなんとか暮らせるらしい。 |
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カメラがない!? |
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雷さんと別れ、機内に入る。荷物を収納し、シートベルトを締めて窓の外を見ると、遠くに飛行場を象徴する「上海」という毛沢東の赤い文字。写真を撮ろうとカメラを探す。ポケットを探り、バッグを開くが見当たらない。そう言えば、さっきの乗り換え時の手荷物検査で、カメラをトレイに置いたまま受け取らなかった・・・。あわてて、中国語でメモを書き、近くにいた空中小姐(スチュワーデス)に手渡す。出発まで、まだ時間はある。意味が通じたのか、出口に向かって彼女が走り出した。5分がたち、10分がたった。もう戻らないかも知れない、検査員がネコババしたのかも・・・。そんな偏見に諦めかけていたところ、別のスチュワーデスが走ってきた。しかし、彼女の手にカメラはない。「どんなカメラですか」(という意味だと理解した)と中国語で訊いたので、「小さな黒のオリンパス」と答えると再び戻って行った。周囲の客はいぶかしげそうに自分の方を見ている。そして5分ほどたち、またスチュワーデスがやってきた。こちらに来てください、と言う。入り口近くに男性スタッフが自分のカメラを手に持ち、「これですか」と訊く。頷き、サインをし、受け取る。 |
ここにも”資本主義”・中国を感じる。経済発展とともに、航空業界もサービス競争の波に洗われ、日本の航空会社に負けないサービスを提供するようになった。機内食はまだ今ひとつだが、従業員の動きはテキパキしている。 |
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厦門空港 |
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空港にはI社長、今回世話になる林さん、そして運転手が迎えに来てくれていた。I社長は、仕事の関係で二日前に福州に入り、先に厦門に来ていた。後でお会いすることになる書道家の松田朴伝さんは、ホテルで休んでいるとのことだった。 |
中国の大都市の空港は、どこも新しく、大きく、きれいだ。ビジネスマンだけでなく、家族連れも多く、すでに庶民の足になっている(もちろん、中国全体では飛行機に乗ったことがない人の方が圧倒的に多いのは間違いないだろうが)。空港内の風景は日本と全く違和感はない。(そういえば、6年前、初めて中国に行ったとき、上海駅で見かけたづた袋を抱えた人々の群れは、今でもあるのか。) |
ホテルまで約20分。車の合間を縫って横断する人々の動きは相変わらずだ。大きな道路でも信号はほとんどない。しかも夜道。中国の交通事故発生率は、日本の15倍と新聞で読んだことがある。増え続ける交通量と人の群れをみると、さもありなん。 |
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厦門京閔中心酒店 |
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厦門は福建省の省都・福州よりも外国人が多い。当然、ビジネスマンがほとんどだ。アメリカ、フランス、ドイツ、シンガポール…。日本人のビジネス目的の大半は、石材の輸入。本場福州に比べればまだ少ないが、ここ厦門も少しずつ増えてきているとのこと。そのせいか、このホテルも外国人が目立つ四つ星の立派な高層ホテルだった(中国のホテルは五段階に分かれている。外国人は三つ星以上なら、まあ安全だが、現地の人からみると、やはり高過ぎる)。フロントに置いてあるホテルのパンフレットによると、今回泊まる部屋は一泊700元。日本円で約11000円。平均的サラリーマンの給料の半月分といえば、いかに贅沢かがわかる。しかし、現地の林さんの会社が契約しているとのことで、チェックアウトのときに料金をみると、362元。55パーセントのディスカウントだ。どうなっているのか。 |
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松田朴伝先生 |
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左:雷さん 中:朴伝先生 (背景は上海・黄浦江) |
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荷物を部屋に置き、少し休憩してみんなで食事に出かけた。今年、還暦を迎えるという松田朴伝先生は、異様な格好をしてロビーに現れた。無精ひげが少し伸びている。坊主頭に黒のハット。服装は赤のセーターに黒のベストと黒のズボン。黒いスポーツシューズに靴紐は赤。後で気がつくと、時計も旅行バッグも黒と赤のコントラスト。靴下も片足が赤で、もう一方が黒。徹底している。本人の説明では、黒は書を、赤は自分を奮い立たせる情熱を意味しているそうだ。I社長の事前の話によると、朴伝先生は最近では、JR九州の駅長おすすめの湯のポスターの字を書き、単なる書道家ではないとのことで、帰国して、早速インターネットで調べると、以下の経歴だった。抜粋コピー。 |
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書家・墨象作家。1940年、佐賀県生まれ。第10回毎日前衛書展秀作賞、第18回奎星展奎星賞など受賞多数。77年のサンフランシスコ展覧会をはじめニューヨーク、パリ、ミュンヘン、ソウルなど海外での展覧会やパフォーマンスの経験も豊富。95年日・米・韓国際交流招待作家3人による「墨・色・形三人展」を主催し注目を集める。 |
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福岡、東京、サンフランシスコ、ニューヨーク、オリンピア、パリ、ミュンヘン、ソウル等で書の抽象作品を発表
。ジャズや太鼓等、音楽とのジョイント・アート・パフォーマンスとして
'87フランス、シグマ現代芸術祭「耳なし芳一」公演(パリ、ボルドー)に出演。日中国交正常化20周年記念の「北京ジャパンウィーク
に出演 。92 ニューヨーク、セントラルパーク野外ステージにて「墨の韻、幻搖の世界」に出演。'95〜'96 日・米・韓
国際交流現代作家三人招待展(書・彫刻・絵)に於いて福岡、ソウル展に出品。'98
「アートを通して世界の平和を」をテーマに、コロラド、ラブランド・ミュージアムとリンカーン・センターより招待を受け出展。 |
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→朴伝先生の作品は、http://www.1484.info/bokuden/ をご覧ください。 |
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日常は福岡市内で書道の先生たちに書を教え、夜はアトリエで作品制作に没頭しているという。彼が言った。「アーティストは金にはならないんです。もちろん書道の先生だけでも食べていけません」。あるパフォーマンスをしたとき、使った筆が五十万円。塗料で書いたから、その筆は何回かで使えなくなった。硯も高いものは2000万から3000万するものがある。文房四宝(筆・紙・硯・墨)の中ではやはり、筆が一番大切だ。書道でいう羊毛はヤギの毛のこと…・、その薀蓄にひとつひとつ頷いてしまう。 |
彼のHPのなかで、次の言葉が印象に残った。「書はやり直しがきかない真剣勝負なんです。塗り直しや書き直しが絶対にできない。それが逆に自分へのプレッシャーにもなって、作品に集中できるという良さがあります。」まさに、人生そのものである。真剣勝負をしているかどうかが、ポイントだが…。 |
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中国料理 |
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福建省の料理は、その土地の名前をとって閔(みん)菜と呼ばれる。四川省なら川菜、山東省なら魯菜だ。しかし、今回は残念ながら、どの店も大して美味しいとは思わなかった。高級店に行けば別かもしれないが、期待はずれで終わってしまった。 |
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●二日目 |
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石材の街・福建省恵安市 |
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I社長と朴伝先生の今回の訪中目的のひとつが、石材工場見学だった。朴伝先生がデザインした彫刻石をホテル、レストラン、事務所などにひとつの装飾品として置いてもらおうというねらいだ。厦門から集美、泉州を通り、現地に着いたのが昼前。街に近づくにつれ、道の両サイドに「石材」の看板が増えてくる。輸出先はほとんどが日本。墓石、庭石、装飾品、建材用…、その用途は多岐に渡っている。しかし、近年、その売上は数十パーセント減少している。特に墓石の売上は納骨堂などへの移行で激減しているらしい。原価の十倍以上の売値でうまみを享受していた業者も、競争の激化とともに次第に窮地に立たされ始めている。 |
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石材工場 |
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これも中国の現状だ |
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数カ所の工場を回った。広い敷地に、大小無数の作品が所狭しと置かれている。朴伝先生は、デザインや仕上げのレベルは低いと言った。つまり、日本の石材加工技術の方が優れているということか。製品は、全部、石工たちによる手彫りだ。あちこちでバインダーがうなり、槌の音が響く。驚いたのは、数十人の石工たちの誰一人としてマスクやタオルを口にあてていないこと。防塵用のメガネもしていない。飛び散る石粉が肺や目に悪影響を与えることに不安はないのか。作業着姿の女性が二人、竹の天秤棒に50〜70センチほどの製品を担いで何度も往来する。慣れているのか、苦渋の顔ではない。夕方六時過ぎ、事務所での打ち合わせを終え、帰ろうとすると、さっき天秤棒をかついでいた女性のひとりが、今度は座り込んで石を黙々と削っている。石灯篭の屋根の部分だ。従業員たちの多くが仕事を終え、三々五々帰り始めているのに、彼女のバインダーの音だけが響く。出来高制のため、ひとつでも多くの製品を作り、稼がなければならないのだろう。出来高制といえば、昼間、屋内で石を磨いていた。バインダーで磨きながら、手にもったホースで石粉を洗い流す。その単純な繰り返し。昼食時間になったというのに3人がまだ働いていた。よく見ると、小学校高学年から中学生くらいの少女たちだ。中国も六・三・三・四制だが、義務教育も終えないうちから働いている。 |
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ひたすら石を磨く子供 |
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細かい点を打ちつづける |
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胸に痛むものを感じながら、工場を後にし、石版の店に行った。大きさA4・厚さ1センチ程度の黒く磨いた石に、動物、風景、花などを描いている。道具は20cmほどの一本のノミ。中には中国の要人が印刷された百元札もあった。外から見えるところに数十枚の作品が掲示され、販売している。そのすぐ裏に行くと、ここにも十人くらいの少年少女たちがいた。暗く狭いところに肩がふれるくらいの間隔で並んで座り、細かい点を打ちつづける。点の数で陰影が出、少し離れたところからみると立派な仕上がりになる。ひとつの製品を仕上げるのに、多分何千回も槌を振るうのだろう。私語は全くない。我々の訪問も意に介さず、ひたすら石版に点を打ち続ける。しかし、いったい1日いくらの稼ぎになるのか。 |
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林さん |
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厦門に戻る。自転車やバイクに乗った労働者たちが家路を急いでいる。対抗車線の車はアッパーライト。そのまぶしさが間断なく続く。20メートル程の道幅の道路に街灯はなく、唯一車のライトだけが頼りだ。我々が乗っていた車が急ブレーキをかけた。目の前を一人の女性が突然現れたのだ。彼女にとって、安全な距離と判断したのだろう。危ない。それにしても、運転していた林さんはタフだ。延々約2時間半の帰路を休憩も取らず百キロ近い猛スピードで車を疾走させる。 |
林さんは、福建省で石材貿易を営んでいる。彼のいとこは日本で墓石販売の会社に勤めている。去年、大阪で彼女と会った時、「ぜひ福建省に来てください。武夷山(世界遺産のひとつ、ウーロン茶の名産地として名高い)にも案内します」と誘ってくれた。林さんにしても、彼女にしても、ビジネスを超えて、懸命に我々に気を使ってくれている。今回の厦門旅行は、彼が通訳だった。流暢とは言えないが、コミュニケーションは全く不安がない。 |
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●三日目 |