台北 1998.3.15〜 3.18

二・二八記念館に台湾の悲しい歴史を見た。そして、あの故宮博物院・・・。老夫婦の気遣いが嬉しかった。

故宮博物院

すべての人々が台湾というこの土地にアイデンティティを持ち、自分たちが生命共同体であるという理念を持って、既成観念を捨てて、家園(ふるさと)の建設のために努力したいと考えている(李登輝)「激震東洋事情」、深田祐介)
 
大陸は台湾の繁栄をそねむべきではない。国家の繁栄というのは、国土と人口に適性サイズがある。大陸は大きすぎ、台湾は小さい。そのことが幸いした。(「街道をいく・台湾紀行」 司馬遼太郎) 
 
●1日目
 
空港→ホテル→総統府→台北駅→中山北路→天厨菜館→士林夜市→中山北路→晶華大飯店→ホテル
 
出迎え
 
 「まもなく台北蒋介石国際空港へ着陸します」という機内アナウンス。窓の下を見ると二期作の田園風景が広がっている。亜熱帯の国、台湾に着く。迎えに来てくれたのは長身のFさん。今回泊めていただくことになっているホテルのご主人だ。大正11年生まれという年齢が信じられないくらい矍鑠としている。知人の父親が戦前、台湾で教師をしており、Fさんはその教え子だった。昔取った杵柄、日本語は不自由しない。車で市内まで約50分。高速道路料金所の係員は若い女性。山間にはつつじのつぼみが見える。トヨタ、日産などの日本車やベンツが疾走する。日本の風景と変わらない・・・、そう考えていると、いつのまにか市内に入っていた。中国圏特有の原色の看板が雑然とあふれている。
 
五葉茶
 
 台北旧市街にあるHホテル。40室ほどの小さな古いホテルだ。このホテルは日本の人文科学を専攻する大学の先生たちがよく利用するらしい。そう言えば、出発前にインターネットで検索すると、台湾研究の紹介文の中にこのホテルに泊まったと書いてあった。案内された部屋でご主人と話をしていると、しばらくして奥さんがお茶を持ってきてくれた。小柄でふくよかな、社交的な女性だ。お茶は五葉茶。少し苦味のある大陸茶だそうだ。テーブルの上に、バナナと一緒に赤い連錐(れんう?)という果物が置いてあった。形は細めの赤みのピーマン、味は甘味のあるりんご。丸かじりするととても美味しい。果物王国、台湾を実感する。壁には、ご主人のお兄さんが国際文化交流書道展で特選を得たときの記念の書。奥さんもとてもお元気で、70代後半という年齢にはとても見えない。次の日、彼女と故宮博物院にデートすることになる。
 
バイク
 
 3時過ぎ。少し休んで、いよいよ台北市内に繰り出した。いつものようにガイドブックとカメラを片手に、ぶらぶら歩いていると、桂林路と中華路という6車線の道路が交じ合う大きな交差店に出た。目に入るのは北京や上海と違い、自転車ではなく、バイクの群れ。歩道は駐「自転車」場ではなく、駐「バイク」場。日本車のブランドばかりだ。近年、台北市長の指示でヘルメット着用が義務づけられた。日本人と同じく、台湾の人も一応ルールに従う国民性を持っている。大陸はまだそこまでいっていない。
 

バイクは庶民の足

 
ひたすら歩く
 
 方向感覚も分からないまま、ひたすら歩いていると、司法院の先に総統府が見えてくる。このあたりは台湾全土の行政機関や銀行が集中する台湾政治の中心地である。赤煉瓦造りの総統府は、かつての日本植民地時代の台湾総督府ビルで1919年に完成したものだそうだ。建物は威風堂々としており、微動だにしない警備兵の姿が印象的だ。そういえば北京の天安門広場の警備兵もそうだった。総統府の向こうに、台北一高い新光摩天楼ビルが見えてくる。再びてくてくとあるく。ここはまさに、どこからでも見えるランドマークタワーだ。隣の新光三越の店内は、1階の化粧品売り場から13階のレストランまで、日本の百貨店と全く変わらない。新光三越の向かいに台北駅。たばこに火をつけ、小休止。街並みと人の流れに慣れてくる。日本の繁華街ではないかと錯覚するくらい違和感はない。
 
新光三越 総統府
地下鉄に乗る
 
 台北駅の向こう側が中山北路。日本人観光客にとって一番なじみの深い場所だ。歩いて行くには少し遠いと感じたので、地下鉄に乗った。初めて台湾のコインを使った。両替してもらったコインの中になぜか大きさの違う2種類の50元硬貨が入っていた。一駅区間で20元(日本円で80円)。香港と違い、スムーズに切符が買えた。切符は繰り返して使うのだろう、自動改札用のカード式。北京の地下鉄でしわくちゃの一角札で乗ったのとは雲泥の差だ。エスカレーターで地下に下りる。ホームにほとんど客はいない。去年12月に開通したせいかとてもきれいだ。車輌はアメリカ製。乗客もカジュアルで身奇麗にしている。この風景も北京と違う。中山駅を出、立ち止まってガイドブックを開くと大きな道は南京西路。このあたりから台北の繁華街が広がり、高級ホテルや中華料理店が点在している。
 
高級ホテル
 
 台北に来て半年にもならない友人と、中山北路と長春路の交差点ちかくにあるリージェントホテル(晶華飯店)のロビーで夜、待ち合わせの約束をしていた。航空券を手配してくれた旅行会社社長の話によると、このホテルは今、台北で最も高級なホテルだそうだ。知人との約束の時間は、彼の中国語のプライベートレッスンが9時30分まであるため、9時45分になった。後で聞くと、彼のアパートはホテルと目と鼻の先。納得。
  20年程前、初めて友人たちと海外旅行をしたのが台北だった。宿泊はこの中山北路にある国賓大飯店。中国で最高級を表す五つ星クラスのホテル、台湾ではなぜか五梅というらしい。リージェントホテルの場所を確認した後、少し歩くと、その国賓大飯店が目に入った。中に入るとロビーは当時と違い模様替えされていた。前回の思い出。深夜12時のテレビ放送終了時、当時の蒋経国総統が軍隊のパレードを閲兵するシーンが毎日流されていた。当時はまだ戒厳令下にあった。しかし、街はとても活気があった。初めて口にした本場の飲茶や海鮮料理がとても美味しかった。時計を見ると6時前。しばらく歩いて中山駅近くの天厨菜館に入った。大衆的な店だ。片言の中国語で、台湾ビールと鍋塔豆腐(揚げだし豆腐)、野菜の炒め物、それに炒飯を頼んだ。
 
士林の夜市
 
 待ち合わせの時間まで、まだ3時間半ほどある。士林の夜市を見るため再び地下鉄に乗り、四つ目の剣潭駅で降りる。出店や屋台が延々と続く。風船割り、麻雀ゲーム、将棋、金魚すくい、雑貨売り、果物、焼き鳥・・・。路上は家族連れや若いカップルであふれている。途中で、右手の路地に迷い入ると飲食店が密集している。人だらけだ。白色光が煌煌と光っている。海産物、生簀、蛇などが目に入る。お好み焼き屋も多い。混沌と貪欲な食欲。やっと台湾に来たと実感した。
 
脱税対策
 
 9時過ぎ。再びリージェントホテル。ロビーは「No Smoking」。時の流れだ。やむなく、外で一服。館内に戻ると、日本語があちこちで聞こえてくる。台湾経済は、アジアの通貨危機の影響はあまりない。人口2100万人、コンピューター立国として今や外貨準備高世界第二位。観光そしてビジネス目的に台湾を訪れる人は多い。友人は時間通りにやってきた。カクテルを飲みながら旧交を暖める。中国語のレッスンは週2回、1回2時間で千元。月に換算すると8回で3200元(1元4円)。家賃は会社が持つが、給料は16万円。結構負担だと言っていた。台北の生活で何が一番大変かと聞くと、水と空気の汚れ。ミネラルウォーターは欠かせないそうだ。あのバイクの群れを見ていると、確かにそうかも知れない。また湿気が多いせいか、夏は蒸すらしい。近くにロイヤルホストがあるから行ってみないかと誘われ、席を立った。彼は精算時にレシートを要求した。年に何度かレシート番号での抽選会があり、当たれば高額の金や景品がもらえるらしい(3日目、中山記念堂の広場で、その交換状況を目にした)。友人の説明によると、脱税対策とのこと。レシートをより多く発行させることで、税収入を確保するそうだ。
 
●2日目
 
ホテル→青年公園→故宮博物院→忠烈祠→老爺大酒店→晶華飯店→膨園餐庁→美楽健康中心→ホテル
 
蒋介石の馬鹿野郎・・・
 
 朝、ご主人と一緒に近くの青年公園に出かける。公園の名前は「青年」だが、そこに集まるのは「老人」がほとんど。みんなでお金を出し合ってカラオケの器械を買い、歌っている。曲は昔の日本語の歌が多い。順番待ちの間に将棋を打つ。短い時間で勝負がつくがルールはわからない。ダンス、太極拳、バドミントン、ジョギングは中国ではいつもの朝の光景だ。公園の一角に、ブロンズ製の馬に乗った人物像があった。「あれは誰ですか?」と尋ねると、ご主人が「蒋介石」と答えた。続けて「蒋介石の馬鹿野郎」と言った。理由は聞かなかった。
 

蒋介石像

 
本省人と外省人の対立
 
 台湾の漢民族は、戦前から台湾に住んでいる本省人と光復後(戦後)に大陸から移住してきた外省人に分けられることが多い。約200万人に及ぶ外省人は、山東省、浙江省、江蘇省出身者が多く、国共内戦により、大陸を逃れ移住してきた者や国民党政府の兵隊として連れてこられたものがほとんどだ。ご主人は本省人だ。だから、あの「馬鹿野郎」は蒋介石率いる国民党に虐げられたつらい過去を思い出したに違いない。後で奥さんが話してくれた。私のいとこは、二二八事件で国民党軍に殺された。二二八事件とは、1947年2月28日に台湾全土で発生した、国民党軍と台湾市民との衝突事件である(映画「非情城市」はこの事件を題材に扱っている)。多くの人の血が流れ、それがその後の「白色テロ」、本省人と外省人の対立へと引き継がれて行く。二二八事件は反外省人として始まった台湾独立運動の原点であり、戦後の台湾史に深い影を落とす事件として、その影響を今でも引きづっている。奥さんのいとこは、リーダー18人のうちの一人だった。
 
油条
 
 公園の道向こうに、古びた市営アパートがあった。その裏手には油条(ヨウジャオ)と豆漿(豆乳)の店。台湾庶民の朝食だ。小麦粉をこね、小指ほどの大きさになった棒状のものが30センチほどに伸ばされ、油の入った鍋に何本も投げ込まれる。あっという間に、直径5センチくらいの太さになり、浮いてくる。それを箸で回転させ、30秒ほどして上げる。職人芸だ。その油条を二つに折り、甘味のある豆漿(豆乳)と一緒に食べる。淡白だが癖になりそうだ。
 
油条豆漿
故宮博物院
 
 今回の台湾旅行の最大の目的は、故宮博物院見学だった。奥さんとタクシーに乗り、途中、円山大飯店(台湾映画「恋人たちの食卓」の舞台になった)や蒋介石住居跡を通り、約30分で到着。エルミタージュ、メトロポリタン、ルーブルそしてこの故宮博物院が世界の四大博物館と称されている。中国の歴代皇帝が収集したコレクションをもとに、約70万点もの収蔵品を誇っている。中国最後の王朝清が倒された時、その膨大な至宝は中華民国政府が引き継いだ。中華民国政府は正当な後継者であることを示すためにも、1925年、北京の紫禁城(故宮)と文物財宝を一般に公開した。これが故宮博物院の始まりである。やがて日本軍の中国侵略が激化し、1937年に、その文物財宝を北京から上海、後に南京・大陸奥地に移す。毛沢東の共産党軍に敗れた蒋介石・国民党軍は、台湾に逃れたとき、一緒にこの文物財宝の大半を運び、1965年、台北の故宮博物院として再公開する。従って、北京の紫禁城は台北に比べて収蔵品が少ないと聞いた。館内1階には黄河文明から清までの代表的な展示品(写真・模造品)が並んでいる。特に見たかったのは、陶磁器と書。残念ながら、王羲之や顔真卿の書を見つけることができなかった。しかし、青銅器、翡翠の玉器、絵画、象牙の彫刻・・・、いずれも、またゆっくりと見たいものだった。こういった場所の見学テクニック。日本人観光客のツアーの中に紛れこみ、案内係の説明を聞くことだ。山水画は、上中下三つに分けて見ること。遠近法が理解しやすい。落款がたくさんあるほど、いろいろな人の手に渡っていたという証拠・・・。奥さんの話は参考になる。
 
忠烈祠
 
 3時から衛兵の交替式があるというので忠烈祠に向かう。日本で言えば、靖国神社。国民党軍のために戦死した約33万人の将兵の霊がまつってある。毎日、やっているせいか、多少見世物的になっているが、一糸乱れぬその動きはよく訓練が行き届いている。
 

忠烈祠の交替式

 
奥さんの話
 
 中山北路にあるリージェントホテルで、6時に友人と待ち合わせていると言うと、それまでの間コーヒーを飲もうと奥さんから誘われた。しかし、ピアノの生演奏のあるコーヒーショップは満席。近くの日航系ホテル・老爺大酒店に行った。二二八事件で亡くなった従兄弟の実家は、当時、呉服店を営んでいた。李香蘭や水の江滝子などのトップスターを呼ぶ興行もやっていた。勤務十年を超えたホテルの従業員十人を連れて、1週間の慰安旅行で日本に行った。そのうちの一人が、3ヶ月後に癌で亡くなった。彼女は、貧乏そして破産した夫との離縁と、不幸だけの人生を送った。それだけに、あの日本旅行が最高の幸せだった、と死ぬ間際に娘に語った。娘は、今でも母の日に自分に花束を贈ってくれる・・・。奥さんは、いろいろな話をしてくれた。
 
湖南料理
 
 奥さんと別れ、友人を待つ。彼は同僚の呉さんを連れてきた。呉さんの案内で、湖南料理・澎園餐庁に行く。紹興酒を飲み、メロンの茶碗蒸し、小鳩のから揚げを食べる。その後、呉さんが先に帰り、足ツボマッサージの美楽健康中心へ。1時間で1100元。日本人の経営のため、現地駐在員や日本人観光客で賑わっている。
 
●3日目
 
ホテル→植物園→中正記念堂→二二八和平公園→新光三越→龍山寺→台南担子麺→ホテル→台北空港
 
中正紀念堂
 
朝食代わりにホテル近くの露店で饅頭を2個買う。大きいが中身は何も入っていなかった。ガイドブックに載っている中正紀念堂を目指した。しかし、場所がよく分からない。しばらく適当に歩いていると公園みたいなところに紛れこんだ。植物園だった。日曜日の朝のせいか、子供が写生していたり、おじいさんが池のほとりのベンチでハーモニカを吹いていたり・・・。のどかだ。植物園を出て、しばらく歩くと橙(だいだい)色の屋根瓦が見えてきた。ここは1975年、故蒋介総統(中正公)を記念して造られた広大な中正公園だ。公園の奥に青い屋根瓦の建物・中正紀念堂が見える。大理石の石段を登ると、建物内の正面に椅子に座った蒋介石の大きな像。その下1階に当時の総統執務室が模して造られていた。中央に軍服を着た蒋介石の蝋人形。公用車も展示してあった。キャディラックで、ナンバープレートは「0888」。縁起のいい数字が並んでいる。しかし、老夫婦の話や二二八事件のことを思うと、この権力者に対し複雑な気持ちがした。
 
中正記念堂
二二八和平公園
 
 歴史を感じさせる台北賓館、その先が総統府。その近くにある駐車場に「統一中国」の赤くて大きな文字看板。道を隔てて二二八和平公園。太極拳やダンスに興じる市民。昼間からベンチで抱き合っているカップル。ミーティングをしている学生たち。その平和な空間の一角に、二二八記念館がある。台湾の歴史だけでなく、当時の新聞記事、録音されたラジオ放送、防毒マスクも展示してあった。日曜日なのに小学生のグループが見学に来ており、熱心にメモを取っている。おじいさんや母親に連れられた子供もいた。歴史教育が地道に行われている。
 

二二八記念館

 
時間がない
 
  午後1時に空港までの車を予約していた。残り1時間半しかない。タクシーで台北で最も古い仏教寺院・龍山寺に向かう。ここでも数十人の老人たちがたむろしている。境内には長い線香の束を目の前に掲げ、お祈りしている地元の人や観光客でいっぱい。香港の黄大仙寺院と同じだ。すすけた極彩色の屋根が印象的だ。このあたりは門前町。友人が、売春街があり治安が悪いので、夜は行かないほうがいいろう、と言っていた。昼食を取ろうと、ガイドブックに載っていた「台南担子麺」という店を探す。少し歩いて、華西街観光夜市というアーケード街の中に、その店はあった。ほとんどの店が夜から開けるみたいでシャッターを下ろしていたが、この店は運良く開いていた。伊勢えびなどの魚介類を店頭でチョイスし、調理してもらって中で食べるシステムだ。時計を見ると12時半。あと30分。店内はシャンデリアが昼間から輝く豪華な内装。食器はウェッジウッド。1000元のコースを頼んであわただしく食べる。もう少しゆっくりしたかった。地図を見るとホテルまで4ブロック。歩いて10分ほど。台北旅行がまもなく終わると少し感傷的になりながら、急ぎ足でホテルに戻った。 
龍山寺・老人のメッカ?
 
回来了(ホイライラ)
 
 1時を少し回ってしまった。フロントにいたご主人の娘さんが、自分の顔を見て「回来了(お帰りなさい)」と言った。心配していたようだ。部屋に戻り、荷物を整理していると、奥さんがお茶を持って入ってきた。ご主人は外出していた。お礼を言い、待っていた車に乗った。なぜか外車だ。空港まで、高速料金込みで900元。普通は1200元するとのこと。最後まで世話になった。
 
台湾は、これからどうなっていくのか
 
 飛行機の出発時間は4時20分。空港に2時過ぎに着いてしまった。待合室は出国を待つ人たちで賑わっていた。カナダ、アメリカ、香港、日本・・・。国際空港だから当然だが、国交のない国へ向かう台湾人たちは多い。台湾は、これからどうなっていくのか。中国政府は香港返還を終え、次は台湾の統一を目論んでいる。台湾の人たちの目標は、大半が独立。観光やビジネスの裏で、空港の中にも、お互いの国の緊張感が見え隠れしている。
 
三つの中国
 
 中国、香港、そして台湾。「三つの中国」への旅がひとまず終わった。同じ中国人でありながら、生まれた場所が違っただけで、三つの土地の中国人がそれぞれ政治的・歴史的・経済的な波に翻弄され、その後の運命が決定される。しかし、国家としての中国と、そこで暮らす庶民との間には大きな差がある。国家の思惑や政治的ダイナミズムのなかで、したたかに生きる人たち。21世紀を目前に、中国は改革開放を旗印に巨龍として国際的な影響力を拡大しようとしつつある反面、その水面下では国家の崩壊または分裂という危険性も十分秘めている。香港は、去年の中国返還後、いまひとつ元気がない。しかし、台湾は、国民の直接選挙による李登輝総統の選出により、真の民主国家への脱皮を果たした。(完)

The trip to China
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