大連(2)・長春 2001.3.31〜4.7

都市の発展はいまや余り印象に残らない。なぜなら、それは既定路線だからだ。中国は確実に変化している。しかし、かつての日本や韓国・台湾がそうであったように、豊かさへの道をこれからも歩み続けることができるのだろうか。

長春 浄月譚森林公園

 
Yとの再会 

今回は同行者が一人、元同僚のMだ。彼は中国初心者。異文化に触れたい、というのが動機だった。五年余り日本に留学していたYが、福岡に住む彼女の兄の知人と一緒に空港まで出迎えてくれた。中国国際航空954便、福岡空港発3時30分、大連空港着5時30分(現地時間4時30分)。

Yさん

天天漁港

ホテルのチェックインを終え、天天漁港という海鮮料理のチェーン店に行く。この店は、予約しないと入れない人気店だ。大連は遼東半島の最南端に位置し、周囲を海に囲まれた港町でもある。アワビ、うに、シャコだけでなく、たくさんの新鮮な魚介類がガラスケースに入り、客はそれをチョイスして調理してもらう。海鮮料理の店ではどこでもみかける風景だ。なぜかカブトガニもあった。10品近い料理が並んだ。しかし当然ながら食べきれない。残すなら最初から注文しなければ、という考えはこのような席では不問だ。
 

贅沢そのもの


【二日目】

旅順観光

二日目は日曜日。希望していた旅順へ向かった。市内は四年前と比べて高層ビルも増えた。韓国企業のビルが建設中に行き詰まり、対面を保つために大連市が外装だけ整えた、日本の森ビルもあった・・・。郊外に向かうにつれ、路上に並べられた商品にたむろする人たちや商店の看板が目に入ってくる。いつもの光景だ。思っていたほどハングルの看板は多くない。星海公園を抜け、一時間足らずで旅順に着いた。大連市は、旅順に外国企業を誘致しようと試みたが国の許可を得ることができなかった。軍港の街だからだ。ちなみに北京政府から派遣され、中央とのパイプが大きく、大連の旅行業外貨収入を90年代前半の約二倍に伸ばした薄前大連市長は今年二月、遼寧省長に昇格した。

203高地

203高地の名前の由来は、206mだった山が日露戦争の激戦で203mになった、乃木大将の次男が戦死し、その魂が眠ることから名づけられた「璽霊山」という中国語の発音(アル・リン・シャン)の語呂合わせなど、いくつかあるらしい。車を停めて坂道を登り始める。頂上まで大した距離ではないのに結構きつい。四人の男たちが竹椅子に客を乗せ運んでいる。青島の労山でみたのと同じだ。頂上から四方が見渡せる。歴史的には、それなりの意味もあるのだろうが、期待していたほどの印象はなかった。むしろ、その後の星海公園、老虎灘、棒すい島など、海を見ながらの海浜道路ドライブの方が結構楽しめた。

203高地

大きな石の亀 大連観光のひとつ・棒錘島

小平島假日酒店

昼食は小平島假日酒店。日曜日と言うこともあって、ウェイティング状態。いつもそうらしい。待ち時間に、所狭しと置かれた水槽の魚介類を眺める。ツアー観光では多分こんなところまで来ないだろう。個人旅行として現地の人間に案内してもらう幸運がここにもある。

高級ホテル前の母と子、そして女たち

夜、Mと二人で市の幹線道路・人民路に沿ってぶらぶらと歩いた。大連の臍・人民広場は夜でも相変わらず人が多い。前回と違っていたのは、大きな液晶スクリーンができていたこと。最先端技術を簡単に導入する中国のひとつの象徴か。新しくできた街路灯が空港まで延びていた。1本108個の省電力ライトが道路を照らす。これも経済発展の産物だ。

富麗華(フラマー)やシャングリラなど五つ星ホテルの前を歩いていたら、我々が日本人とすぐに分かるのだろう、後ろから7〜8歳の子供を連れた母親が声をかけてきた。ずっと食事をしていない、金をくれ、と言っているらしい。しつこくついてくる。多少感じるものもあったが無視しつづけていると数十メートルついてきて諦めた。この後、別の日にも違う母子や二人連れの中年女性が同じように声をかけてきた。特に、子供が声を出しながらまとわりついてきたのには少々参った。さらには、「可愛い女の子、紹介します。どうですか」と中国語で寄って来る女性もいた

最近、このようなキャンペーン看板は少なくなった

 
【三日目】

接待の酒

ある政府機関に勤める王さんに昼食をご馳走になった。それにしても、なぜ彼らは宴会のとき、いつも元気なのか。相手が中国語が分かろうと分かるまいと一方的にまくし立てる。料理を注文した後、自ら持参した「竹葉青酒」という白酒をいきなり、小さなグラスに注ぎ始めた。

同じブランドの酒は一般にも市販されているが、彼の説明によると、この酒はヴィンテージものらしい。早速、中国流乾杯の儀式が始まった。乾杯と言ったら、文字通り飲み干さなければならない。そして、もうひとつ。乾杯をするとき、相手を立てるために自分のグラスの位置は相手より低くすること。通訳を務めてくれたYもそれが礼儀だと言う。確かに口当たりがよく美味しかったので最初の方は余り気にせずに飲んでいた。乾杯したら、すぐに乾杯。気が付いたら、あっという間に三人で一本が空いた。

すると彼は今度は「郎」という酒を出した。アルコール度は38度、白酒としては低いほうだ。そして同じように乾杯のラッシュ。余りの強さにむせってしまった。「郎」は狼の意味。狼のようにたくましくなるという意味か、それともこの酒を飲むことは男らしさを示すということなのか。後でYに聞くと、中国人の接待は酒の飲み方でお互いの信頼度を測る。だから初対面のときは例え飲めなくても、いったんグラスを口にしたらぶっ倒れるまで飲まなければならない。そうすると二回目からは許してくれる(考え方によっては暴力的とも言えるが、郷に入れば郷に従え、と今回は観念した)。

我々二人は言われるままに二本目が空くまで飲みつづけた。昼から仕事がある王さんも相当酔っている。しかし、このことが、後の行程に大きな影響を及ぼすことになる。

完全にダウン

王さんにホテルまで送ってもらって部屋に戻り、ベッドに身体を投げ出す。苦しい、というより身体が動かない。そのまま夜中まで寝入ってしまった。こんな経験は初めてだ。次の日、長春行きの航空チケットをキャンセルしようか、とも考えたほど酩酊状態だった。Mは、もっとひどい。次の日まで眠りつづけたらしい。

衝突事故
 
夜中目を覚まし、テレビのスイッチを入れると、「アメリカ偵察機、中国軍機と接触し、海南島へ緊急着陸」というニュース。中国にとって最先端の軍事システムを入手できる絶好のチャンスだ。人質返還交渉も膠着しているらしい。能天気な観光旅行の裏では、国家レベルの厳しい現実がある。

【四日目】

売店

朝食はほとんど口に入らなかった。ホテルの売店で胃薬を買う。宿泊客のために漢方薬、朝鮮人参、シルクの刺繍、工芸品など中国土産の定番が陳列されている。日本語のできる従業員が「バイアグラはどうか」と勧めてきた。商品はガラスケースにはなく、棚の奥から取り出してきた。中国製だ。1錠の量が多く、4錠で8000円を5000円にするという。「日本人は金持ち、日本人はスケベ」という先入観があるのだろうか。日本語の勉強をしているアルバイトの従業員の月給が約600元(1元=約15円で換算)と言ったから、高価に違いない。ちなみに、中国人男性に今人気があるのは「雄風」という漢方のカプセル。10錠で27元。

マッサージ

長春行きの飛行機が午後4時発。それまで市内を案内しようとYがホテルにきてくれた。しかし二人とも、相当きつい状態。労働公園地下の市場やマイカルをのぞいた後、身体を休めるためにホテル近くの万康健康センターという店で全身マッサージをしてもらった。一時間58元。前回と比べ、市内にはマッサージやサウナの店が随分と増えた。

50人乗りジェット機で長春へ

ホテルで少し休んで空港へ。山東航空は、青島−大連−長春間に毎日二便飛ばしている。飛行機は、両サイド二席ずつの50人乗りジェット機。予想通り出発が40分ほど遅れたが、満席。外国人は我々二人だけのようだ。空の旅は全く揺れることなく快適そのもの。機内食は貧弱だったが、これを先日の母子にあげたら、という思いがおこった。口にせずそのままホテルに持って帰って、結局捨ててしまった。

ガイドの趙さん

一時間で長春空港に着いた。出迎えてくれたのは、Yが手配してくれたガイドの趙さん。30代後半くらいか。奨学生として仙台で半年ほど旅行業の勉強をしていた。日本語は、今ひとつだが、十分に通じる。こちらが少々中国語ができると分かると普通のスピートの中国語で話してしまう。

長春市内

吉林省長春市。人口は約640万人。年間平均気温は4.6度とガイドブックに書いてある。今年1月は珍しく零下30度まで下がったとのこと。市内に向かう車から見える風景は、97年の大連と同じ印象で、ほこりぽかった。やっと、中国へきた、という感じがした。体調が相変わらず優れなかったので、夕食はホテルのレストランで少量の麺一杯のみ。これでは全く商売にならないだろう。そして、夜の街を徘徊することなく、そのまま寝てしまった。趙さんは申し訳なさそうにしていたが・・・。

【五日目
日本の侵略を忘れるな(勿忘九・一八、偽満皇宮博物館

長春市中心医院

翌朝、趙さんの奥さんが看護婦として勤める市の病院に連れて行ってくれた。建物の中は患者で一杯。奥さんが待っていてくれて、受付を済ませ、階段を上り、腸内科へ。3畳ほどの小さな部屋に二人の医者が机をはさんで座っていた。日本のように最新鋭医療器械などはまったくなく、目に入るのは机の上の血圧計と聴診器のみ。Mの症状を尋ね、脈を取り、診察は約10分。薬を処方してくれた。待ち時間一時間、診察五分という日本の病院とは随分違う。自分は診察を受けなかったが、薬は同じものをもらった。

偽満皇宮博物館

長春観光の最初は、ラストエンペラー溥儀が満州国の皇帝になったときの皇宮。最初に目に入ったのは「勿忘九・一八」という江沢民の文字。1931年9月18日、日本軍が満州を侵略(満州事変の発端となった「柳条湖事件」が起こり、中国の人々にとっては屈辱的な日である)。翌年、傀儡国家・満州国を建国し(中国では偽満州国と呼ばれる)、長春はその国都新京となった。博物館は緝熙楼(しょうきろう)という溥儀の生活した建物。溥儀やその皇后媛容や皇妃譚玉齢などの蝋人形や当時の写真が飾られている。

ガイドの趙さんが言った。「お気づきになりますか。この建物はロの字形で作られており、中庭に一本の木が植えられています。困るという字になります」。溥儀の心境を表しているのか。この陳列館の周囲は、観光収入を目指して、いま少しずつ取り壊され将来整備されることが決まっている。

長春電影宮

前身は、1939年に作られた満州映画製作所。現在でも、使用されているが大して見るべきものはない。Mが言った。「今話題のユニバーサルスタジオ・ジャパンと比べると、巨人と蟻以上の差ですね・・・」
 

撮影所内(M)


八大府

偽満州国軍事部、司法部など満州国家機関のなかで現存する八つの建築物。その他、関東軍司令部や満州国中央銀行など、すべて重厚な作りだ。そのひとつ偽満州国務院に入った。日本の国会議事堂を真似て作られたこの国務院(現在は医科大学基礎医学院)は地下で長春駅や関東軍司令部とつながっていた。

満州国当時のエレベーターに乗り、建物内を見学。溥儀が初めて二万人の兵士を閲兵したという閲兵台からは周囲がよく眺望できる。閲兵台の屋根の頂部にある桃形の飾りは、東北地方を永久に支配するという日本の野心を表している、とガイドブックに書いてあった(桃は長寿の象徴)。この建物の中には、なぜか土産物屋もあった。したたかな中国商法である。

     偽満州国務院の屋上から見る

博芸茶苑

中国茶は本来、福州や広州など中国の南の地方で盛んだ。東北部は、茉莉花茶(ジャスミン茶)が一般的だが、クコの実などを入れた八宝菊茶などの健康茶も日常的に飲まれている。

博芸茶苑という茶館に行った。店の入り口に次のような文字が見える。「美酒千杯難成知己、清茶一盛也能酔人」。大連や長春などでもこのような茶館は最近増えてきている。福建省に本店があるこの茶館は長春に新しくできたが、すぐに人気店になった。有名人も多く訪れるらしい。

店内はたくさんの茶器がきれいに展示され、工夫茶のための個室もある。アモイと同様、女性が中国茶の入れ方や飲み方を30分ほど説明し、茶を売る。担当した若い女性が可愛かった。今回の旅行で唯一「可愛い」と思わせた女性だった。日本語を習っていると言うことで日本語で説明してくれた。


急須(茶壷)を買った。いいなと思ったものは、1800元。欲しかったが手が出せなかった。宜興紫砂の香炉も気に入った。子供の両手から線香の煙が出てくるものだ。高さ20センチくらい、1500元だった。よく見ると、台座に少し割れ目が入っている。従業員に指摘し、少し安くして欲しい、というと社長に相談してくるという。社長は、趙さんの友人だった。1000元でいい、という。少し迷っていると傷のない他の商品を持ってきた。これもいい。社長が来た。従業員のように積極的な売り込みはしなかったが、最後に傷の入った香炉を500元でいいと言った。従業員たちは驚いていた。自分で使う分ならいいが、とまたまた迷ったあげく、結局買わなかった。 

  この香炉が欲しかった


【六日目】

盲目の占い師

以前、ある留学生から自分の出身地の長春に有名な占い師がいる、と聞いていたのを思い出し、趙さんに行って見たいと頼んだ。店は幹線道路から少し入った裏通りの一角にあった。

朝10時すぎに着くとすでに、10坪程の小さな部屋に4〜5人の客が、50歳くらいの男性を囲むように座って待っている。。待っている間にも、さらに何人かの客が訪れた。ここでは、プライバシーはない。見てもらっている人の話を囲むように、みんなが聞いている。

占い師は目が不自由のようだ。彼は時おりタバコを手探りで取り出し、火をつけ、しばし黙考する。言葉は分からないが、客たちは占い師の話に一喜一憂している様子が感じられる。自分の番が来た。趙さんが通訳してくれる。いわゆる四柱推命だ。生年月日と生まれた時間で占う。不明な暦は助手が調べ伝える。Mが生年月日をいうと、何も聞かないのに、いきなり職種を言い当てた。一人20分前後、趙さんは二人で200元払った。多分日本人だったからだろう。中国の人は数十元。彼は手探りで金を受け取り、釣りを渡す。午前中しか仕事をしないらしいが、これだけ客が来るのなら相当の稼ぎに違いない。


浄月譚森林公園の鹿たち

郊外に浄月譚という広大な公園がある。植物園、湖、鹿園などでシーズンはにぎわうらしい。鹿園に数百頭の鹿が飼われていた。趙さんが「5頭100万円で投資すると立派に利益が出ます」と言った。鹿の角は滋養強制剤としてスライスして売っている。囲いに入った数十頭の鹿がこちらをじっと見つめている。物音がするといっせいにそちらに頭を向け、再びこちらを見つめる。そのしぐさがとても可愛い。ちなみに、鹿の角は漢方薬の材料として1本三万円で取引され、「要想富、快養鹿」(金持ちになりたいなら、鹿を飼え)とばかりに、吉林省の農村では鹿ビジネスで村おこしをしているところもあると聞いた。


シャングリラホテル

大連にもどる飛行機の出発まで時間があったので、シャングリラホテルでコーヒーを飲んだ。ゆったりとしたソファーでくつろいでいると、ここは中国なのかと錯覚してしまう。中国のサービス業もこのような外資系の企業が進出することで教育レベルが向上し、いわゆるホスピタリティビジネスも少しずつ庶民になじみ、レベルアップしていくのだろう。

体調が戻ってきた

大連に戻った。空港に着くと、白タクの運転手が何人も目ざとく声をかけてくる。それを無視してタクシー乗り場へ。ホテルまで28元くらいだった。体調が戻ってきた。チェックインを終えた後、近くのシャングリラホテルに夕食を食べに行った。ビールとサラダなど、簡単なものを頼んだ。この旅も残すところ後一日。

【七日目】

中山広場

土産を買いに出かけた。友誼商店を見て、中山広場へ。子供たちがサッカーに興じたり、カップルが肩を組んだり・・・。のどかだ。ここで一服していると、足で蹴る羽を売っている女性二人が口喧嘩を始めた。周囲のことなど一切眼中になく10mほどの距離をおいて、お互い大きな声で罵り合っている。理由はわからない。近くにいた数人の通行人がなだめようとするが全く意に介さない様子。その喧嘩は延々10分以上続いた。

勝利市場

大連駅前の勝利公園地下にある商店街を歩いた。一軒当たりの間口は日本より多少狭いが日用雑貨、服、工芸品などたくさんの店がある。地上に上がると二元ショップや十元ショップがあった。日本の100円ショップと同じだ。しかし、買いたいものは特になかった。付加価値としては、100円ショップの方がはるかに高い。

大連は美人が多いと聞いていたが・・・

「こんなに若い女性がたくさんいるのに、美人や可愛い子が全くいませんね」。Mの感想に同感した。なぜだろう。たまたま出会わなかったのかもしれないが、テレビで見る以外、今回の旅行でそのような女性たちに会うことはなかった。Yは、そのような女性は夜登場する、と笑っていた。日本人と中国人では好みの傾向が違うのか。

携帯だらけ

日本と同様、携帯の花盛り。ビジネスマンだけでなく、一般に広く普及している。中国移動通信が圧倒的に多いようだが、資料によると、基本使用料50元/月、回線使用量50元/年、市内通話料 0.4元/分。市外や国際電話は高くなる。日本と異なるのは、受信者も半額料金を負担しなければならないこと。だから遠距離になると、かけるほうも気を使ってしまう。ICカードを使って公衆電話をかけることができる。

Dnavi

ホテルに無料の日本人向けA6版観光冊子が置いてある。広告収入で出版しているようだが、名前は「Dnavi」。すべて日本語で、最近の大連の情報が載っている。日本語の通じる病院やホテルリストもあり便利だ。ちなみにHPのURLは下記の通り。

http://www.navigator.co.jp/

【最終日】

アメリカに行かないと男ではない

毛沢東の言葉に「不到長城、非好漢(万里の長城に行かないと男ではない)」というのがある。現実に当てはめると「外国、特にアメリカに行かないと男ではない」ということか。向上心や出世欲の強い若者にとって、アメリカで学び、あるいは働くことはエリートの証として大きな目標となる。中国の大学生の英語レベルは、日本人のそれと比べてはるかに高く、実践的だ。

国家として語学教育に取り組む姿勢が根本的に異なる。もちろん学生たちの学習意欲も高く真剣だ。大連空港は海外に向かう客で混雑していた。日本に戻る機内にも多くの「青雲の志」を抱いた中国人の若者たちが乗っていた。アメリカではなく、日本に留学するためだが、彼らは数年後、どのような感慨を持って、自由で豊かな国・アメリカや日本を見ているのだろうか。

日本はやはり黄金の国?

中国でも高額所得者は当然多い。ホテルには、ワーゲンやベンツ、トヨタなどの外国車がたくさん停まっている。趙さんの話によると、中国の旅行業は伸び続けている。庶民レベルでの経済力が向上しているからだ。少しずつ豊かになっていることは間違いないが、まだまだ時間がかかるだろう。そして中国の人にとって日本人は金持ちだ、という観念も変わらない。豪華なホテルに泊まり、服装もきちんとしている。われわれがショッピングをしていると、日本語で店員が語りかけてくる。確かに中国人の生活レベルからいうとその通りかもしれないが、我々日本人も日本に帰ると決してそうではない。

ポイントは、中国のWTO加盟。車、ITなど世界の技術先進国と同等の競争世界の中に投げ込まれたとき、果たしてどれだけの企業が生き残ることができるのか。外資の導入によって沿岸部を中心に発展してきた中国。庶民は、その恩恵にあずかっているが、今後も予断は許さない。

最後に
 
今回の旅行も多くの人に世話になった。「友達の友達は、友達」。どこかで聞いた言葉だが、彼らは時間を割いて、我々に優しく対応してくれた。Yは時間の許す限り、付き合ってくれた。趙さんは、ガイドの域を越えていろいろな所に連れて行ってくれた。王さんは帰国前の前日、改めて宴席を設ける予定にしていたらしいが、外出していた我々と連絡が取れず、目的が果たせなかった。しかし、出発日の朝、ホテルにわざわざ見送りに来てくれた。非常感謝!! 
The trip to China
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